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カズオ・イシグロを通して見る村上春樹、あるいは vice versa (その逆もしかり)- vol.1/100/2021

2021年(正確にはフライングして 2020年12月28日から)、ジャンル問わず勉強するためとりあえず量を意識して読書してみることにしました。
それが #2021年の100冊
9月19日時点で89冊。この調子なら達成できそうです。

なので、書く方を始めることにしました。
 #9月から始める2021年の100篇 。2021年中、5日くらいしかサボれない計算です。

書きたいけど書けてない。だけど書けてない毎日の積み重ねの先に、憧れの生活や人生はない。「やりたいこと」に続く道を、いま歩いてない。
そう思ったので。

タイトルの vol. 1/100/2021は、「2021年の100分の1」っていう意味です。良い表記思いついたら変えよう。

#1 カズオ・イシグロを通してみる村上春樹

自分と村上春樹の違いは、カズオ・イシグロとの関係性にある。
カズオ・イシグロを「同世代」と捉えるのが村上春樹で、自分にとってカズオ・イシグロは村上春樹と同じく「追うべき背中」だ。

村上春樹が53歳年上のスコット・フィッツジェラルドや65歳年上のレイモンド・チャンドラーを読みふけったように、自分は40歳年上のカズオ・イシグロや45歳年上の村上春樹を読み漁っているのである。

なんだ、それで言えば村上春樹との違いは村上春樹その人との関係性でもある。
村上春樹を「自分の内側」と捉えるのが村上春樹で、自分にとって村上春樹はカズオ・イシグロと同じく「追うべき背中」だ。

村上春樹を通して見るカズオ・イシグロ

村上春樹がカズオ・イシグロについて語った文章がある。

構成も文体も、それぞれの作品ごとに明らかに、そして意図的に区別されている。しかしにもかかわらず、それぞれの作品には確実にイシグロという作家の刻印が色濃く押され、ひとつひとつが独自の小宇宙を構成している。(中略)
それは優れた小説をいくつかたまたま書き上げる、というだけのことではない。イシグロという作家はある種のヴィジョンをもって、意図的に何かを統合しているのだ。いくつもの物語を統合させることによって、より大きな統合的な物語を構築しようとしているのだ。僕にはそう感じられる。
(「村上春樹雑文集」p.364)

ふぅん。カズオ・イシグロとは、そういう作家だったのか。村上春樹の目を通して、体系的なカズオ・イシグロを知る。もちろん、それが正解というわけではないが、世界の見方のひとつだ。

自分はまだ特定の作家の周辺を歩き回ったことが数人くらいしかないので、体系的に発言できない。でも彼が言いたいことはわかる。

その年、私は

っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっb

おっと、うとうとしていました。

その年、私はロッキングチェアにうもれてじっと待っていた。文章が、アイディアが、知識が舞い降りるのを。

「その年」?

本当は、「XXXX年、夏の湿度が風に吹かれてたち消えるころ」とか書きたかったのだけど、「2021年」だとどうしても締まりが悪い。村上作品みたいに「1973年の夏」とか「1968年の秋」とか書きたいものが、その時代に生きていないから仕方ない。50年前というだけで想像の世界が広がる、それもまた自分と村上春樹の違いに間違いない。

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