見出し画像

ウィンナ・コーヒーの夢

スタバでバイトをしていた大学生のとき、わたしはオープンに入ることが多かった。そのスタバは中心街のホテルの中にあり、店内はホテルのロビーと繋がっていてちょっと高級感のある雰囲気だった。
チェックアウトのときに立ち寄る人も若干いたが、出勤前のひとときを過ごす人、お散歩途中のご夫婦など、名前の知らない多くの常連さんが、各々の朝時間を過ごしていた。名もなき常連さんがガラス越しに外から歩いてくる姿を見ると、脳内でドリンク名とカスタムが自然と出てきたものだ。
よく同じ時間帯に入ることが多かったのは社員主婦さん。この店舗に来る前は、横浜の店舗にいたらしい。二児の母でありながら、どこか小慣れた都会感があって、バックヤードで永遠に人生相談をしていた。旦那さんが北欧に出張に行ったときに、マリメッコのワンピースを買ってきてくれた話が特に好きで、いつかわたしも…と思っている。
その主婦さんのカスタマーホスピタリティは素晴らしい。社会人になった今でも、主婦さんの言葉をよく思い出す。だからこそ、常連さんではないお客さんから「ホットのドリップコーヒーにホイップクリーム追加で。」と注文されたときにレジで首を傾げていたわたしからオーダーを受け取り、もりもりのホイップクリームが浮かんだマグカップを笑顔で差し出していた主婦さんの姿を、わたしは今でも忘れることができない。

ドリップコーヒーに、ホイップクリーム…??

採用面接をはじめ、ミーティングや研修の際には必ず小さな紙コップに注いだドリップコーヒーを飲みながら話をするのが暗黙のルールだった。誰も砂糖やミルクを入れる人はいない。わたしは入った当初コーヒーが飲めなかったので、苦味と酸味をうんと我慢して喉の奥に流し込んでいた。けれど、主婦さんとテイスティングを繰り返して味を言語化するうち、本当にナッツの香りや果実の程よい酸味が感じられる気がしてきたのだ。しまいには、「大地を感じる味だよね〜」との問いかけにも納得できるようになっていた。
それから、コーヒーとはブラックで飲むもの!という勝手な決まりごとが自然と生まれ、甘いコーヒーを毛嫌いするようになっていた。

そんなときに、砂糖やミルクどころか「ホイップクリーム」を追加して欲しいと言われたわたしは、マニュアル上できるかどうか以前に(できます)、なぜこの動物性脂肪の塊をコーヒーに…!という疑問で頭がどうにかなりそうだった。

社会人になったわたしは、スタバ以外のすてきすぎるカフェを見つけては休日に行くようになった。
そんなある日、あのオーダーは「ウィンナ・コーヒー」の注文だったのだと気づく。こんなにおいしくて、大人と子どもの境に立つ大学生のような初々しさが感じられるこのかわいらしい飲み物の存在に気づいてしまったのだ。

それからというもの、スイーツを食べるほどではないが程よく甘さもほしいしコーヒーも飲みたい、というときには決まってウィンナ・コーヒーを選ぶ。
今日が、まさにそういう日であった。
立ち寄ったのは、銀座トリコロール。ここに来たのは三度目だが、毎回結局ウィンナ・コーヒーを頼んでしまう。あの夢をもう一度…と幸せな二度寝をするように、あの味を求めてしまうのだ。

金縁の上品なカップアンドソーサーに注がれたその夢。
一口目は掻き回さずに、はふっとホイップとコーヒーをいただく。ホイップとコーヒー。どう考えても対照的な見た目と味なのだが、あらゆる引き算の末に辿り着いた両者が口の中で輝く。
二口目からは、適度に掻き回して甘みを調整しながら味わう。その日の本は、安部公房の「壁」。考えるな、感じろ。な展開に寄り添ってくれるような味だった。

最後、飲み干す前にわたしはスプーンを持つ。
なぜなら、そこに残ったザラメをすくうためだ。「すくう」を脳内で「救う」と変換してしまいそうになる。辛抱強く溶けずに残ったそのザラメを、スプーンにのせて救出し、そのまま食べる。じゃりじゃり、という音が耳に響くが、この場にはふさわしくない音すぎるので、音を最小限にしようと試みる。
最初にこのウィンナ・コーヒーを飲んだとき、このザラメの存在に気づかずにごくごくと飲んでしまった。さあ飲み干すよ、とカップを持って底を見たとき、わたしは夢をみているのかと思う。名残惜しい甘さが、最後にわたしを見送ってくれている。ああ、気づかなくてごめんよ。そしてありがとう。

今日は少しずつそれらを溶かすように掻き回していたが、やはり最後に残っている。ありがとう…と思うと同時に、あの主婦さんのことを思い出した。
一杯800円のこの味を、彼女と一緒に味わう日が来たらいいなという夢が、じゃりじゃりと音を立てて口の中に溶けていった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?