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【エッセイ】たくさんの人に向けて、隣で話すように

(1280文字)
今朝は寒かった。
夜中の2時頃に寒くて起きてしまい、開けっぱなしにしていた窓を閉めた。
それから空がうっすら明るくなった頃に、また目が覚めてしまってトイレに行った。
あ、これは寒さのせいじゃなくて加齢か。
初老を実感する秋の朝。

こうやってエッセイのようなものを書いていると、読みやすいと言っていただけることがある。嬉しい限り。
何も考えないで書いているんですけどね、なんて書くとかっこ良いかもしれないけど、もちろんそんなことはなくて、一応心がけていることはある。

たくさんの人に向けて、隣で話すように書く。

これです。
一読すると矛盾しているようにも感じるけどね。

インターネットにアップするということは誰が読むか分からない。
noteのフォロワーさんかもしれないし、何かを検索してたどり着いた人かもしれない。
そうやって何か縁があって開いてくれた人の、なるべく多くの人に読んで欲しいと思う。せっかく書いたわけだからさ。
それにはまず、そのエッセイだけで理解できるということが肝心。
ボクの年齢や仕事、環境などが分からない人にも伝わるように。
そのエッセイが年齢を前提とした内容なら、冒頭の文章のようにさらっと年齢がわかるような文章を入れてみたりして。
難しい文章も使わない。
あ、カッコつけました、書けないだけでした。
内輪ノリにならないようにもしたいですね。
時々、何かを含んだようなエッセイがあるけど、それが分からないとモヤモヤするしね。
そして読んでくれた人の時間を無駄にもしたくない。
読んで無駄じゃなかったと思えるような何かを文章に込めたい。

隣で話すように書く理由は「読む時はひとり」だから。
当たり前ですけどね。
そしてボクが書いている内容は、ステージに立ってスピーチをするような内容でもない。
飲み屋のカウンターでの雑談程度ですよ。
それなら読んでくれる人も、ビール片手に「あー、だよねぇ、わかるわかる」なんて相槌打ちながら読んで欲しい。
時には「なるほどー」なんて頷きながら。

どうしてそう考えているかというと、好きな作家さんがそういう感じだったから。
それがこの人、永倉万治。

wikipediaで調べてみると、1948年生まれで2000年に病気のために52歳で他界。
そうか、ボクはもう彼の没年齢を超えていたのか。
著作はエッセイと小説を合わせて50冊くらいだと思う。
大学を中退し、劇団キッドブラザーズに参加。
退団後は、ちり紙交換をしたり、放送作家や雑誌編集をしながらエッセイを書くようになって作家に。
その頃の経験は多数のエッセイに散りばめられている。

とにかく飾らない。文学というような重さもない。
没後20年以上が過ぎた今でも多くの人が語り継ぐ、なんて作家でもない。
近所のちょっと変わったおじさん、という感じ。
その彼のエッセイがまさに、飲み屋で隣に座ったおじさんの雑談という雰囲気。
そして最後に、肩を叩きながらこう語りかけてくる。

「ま、いろいろあるけど頑張ろうよ。無理しない程度にさ」

ボクにとってはそんな作家さん。
ボクも誰かのそういう存在でありたいと思う。
それはつまり憧れなのかもな。


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