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【エッセイ】名前も知らないあいつ

(1847文字)

あいつに初めて会ったのは、一昨年の10月だった。
現在住んでいる家をインターネットの不動産サイトで見つけ、ひとりで来てみたとき。
家の近くの砂利道をのっそりと歩いていた。
真っ白な毛に覆われているが、毛並みを見るとどうも野良のようだ。
頭にちょこっとグレーの部分があるが、この程度なら白猫と言っても良いだろう。
ボクの方が歩くスピードが速く距離が縮まるが、焦るでもなくスピードを上げて距離を保つ。それなりの歳はいっていそうだ。
やがてボクが曲がる方向とは逆の竹藪に消えていった。

次に会ったのはこの家に住むようになってから。
よく晴れた晩秋の昼間、近所の家の外階段で日向ぼっこをしていた。
その時に撮ったのがトップの写真。
貫禄のある体つき、太々しい表情が、野良でもこの辺りのボスなのではないかと思わせる風格があった。

あれから1年半以上が過ぎた。
その間、ボクたちは時々顔を合わせた。
どこかで日向ぼっこをしているところを見かけたり、家の前の道を歩いていたり、時には我が家の玄関先を横切っていくこともあった。
何度か近寄ろうと試みたものの、いつも焦らず、しかし一定の距離を保ったまま、「俺に触ろうなんざ10年早ぇよ」とでも言いたげな顔で歩いて行った。

今年になって、新緑のシーズンも終わった頃、ふと思った。そういえば、しばらくあいつに会っていないな、と。
それから間もなく、梅雨に入った頃、隣の倉庫の軒先で、目を閉じて丸くなっているあいつに会った。
しかしボクは、それが本当にあいつなのかと、俄かには信じられなかった。
体はひとまわり小さくなり、顔は痩せこけている。
耳などに怪我をしたのか、瘡蓋のようなものが付いていて、目脂で顔が汚れていた。
近寄っても逃げず、体を触ると少しビクッとしたが、そのままだった。
とにかく腹が空いているのではないかと思い、ボクは家に戻り、「お宅の猫ちゃんに」と知り合いに貰ったパウチの餌を皿に開けて持って行った。
顔の前に置いても目を開けないので、皿を持って鼻先に近づけると餌だということが分かって目を開けて食べ始めた。
そのまま食べさせてあげたかったが、他人の家の敷地なので、餌の皿を持って自宅まで誘導しようとした。
しかしあいつは鼻をひくひくさせて探しているが、20cm先の皿に気がついていない。
目が見えていないのだ。
そこで鼻先に近づけて、匂いが届くであろう距離を保ったまま誘導すると、立ち上がってついてきた。
あいつのペースに合わせてゆっくり歩き、玄関先まで連れてきてそこに皿を置くと腰を下ろして食べ始めた。
ボクは安心してしばらく眺めた後、家に入った。
しばらくして玄関を開けてみるとあいつの姿はなく、餌は1/3ほどが残されたままだった。

翌日、ボクはパウチの猫餌を5袋買ってきてあいつを待った。
それから2日ほどして、買い物から帰ってくると、隣の家の前の道の真ん中で、あいつは日向ぼっこするように蹲っていた。
ボクは家に戻り、餌を皿に開けてあいつのもとに急いだ。
鼻先に近づけると、ひと口、ふた口とゆっくり食べた。
ボクは前回のように自宅の前に誘導することにした。
しかしあいつは立ち上がっただけで歩こうとしない。
そこでこのまま食べさせたかったが、近所にこういうことを嫌がる人がいる可能性もあるので、なんとか家に連れて行きたかった。
しかし動かない。
抱いて行こうかと思ったが、それはきっと嫌がるだろう。
どうしようかと思っていると、あいつはボクに顔を向けたまま腰を下ろした。
あいつの目は見えていない。
だけどボクたちはしばらく見つめあった。
「もういい。もういいんだ」
あいつがそう言っているように見えて、ボクはこれがお別れなんだと察し、スマホで、あいつの姿を写真に収めた。

それから今まで、あいつの姿を見ていない。

名前も知らない、きっと人に名前をつけられていないあいつ。
今でも時々、日向ぼっこをしていた階段や、よく歩いていた砂利道、最後に会った家の前の道であいつの姿を探してしまう。
この辺りのボスだったかどうかは分からないけど、元気な頃の貫禄のある姿が思い出される。
そんなあいつの最期のときに、少しだけ触れ合えたことは光栄だったと思う。

全ての生き物にいつか訪れる死。
誰もが遺される寂しさを味わい、遺して去っていく。
人間より早く寿命を迎える動物たちは、時々それを思い出させてくれる。

死ぬんだよ、みんな。

いろいろあるけど、深呼吸して、ちょっとだけ頑張ってみようか。
あいつの姿を思い出すと、なんとなくボクはそう思う。




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