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【シロクマ文芸部】消えた鍵

お題:消えた鍵

「消えた鍵はいりませんか?」
そう呟きながら歩く鍵屋の声は、熱された空気と渦巻くようなセミの声に溶けて消える。
地平線から湧き上がるような入道雲の上に、絵具をそのまま塗りたくったような青い空。遮るもののない太陽の光に灼かれたアスファルトが、下から鍵屋を炙る。
数十メートル先は蜃気楼に揺れ、国道をゆく車の排気ガスが、汗ばんだ肌に貼りつく。額から流れた汗は、縁石に落ちた途端に蒸発して消えた。
鍵は売れない。
足取りが重い。
鍵屋は陽の当たらない路地に入り込み、崩れそうなトタンの壁のアパートの階段に腰を下ろした。
日陰に入ってもじっとりとした汗はなかなか引かない。
「こんにちは」
その声に鍵屋は後ろを振りかえって見上げると、階段の上にひとりの中年男が座っていた。上半身ランニング姿でうちわで涼をとっている。
「消えた鍵とはなんです?」
「はぁ、あなたが本来持っているはずの幸運の箱を開ける鍵です」
「幸運の箱?」
「はい、人は必ず幸運の箱を持って生まれますが、その箱を開ける鍵を多くの人は失くしてしまうのです」
「すると、その鍵で幸運の箱をあけられるのか?」
「そうです」
「その箱はどこに?」
「宇宙の真理をまとめた空間にあります。しかし心配要りません。この鍵を持っているだけで、あなたの箱は開くのです」
「それは良いね。私の人生、良いことなんてひとつもなかった。きっと鍵を失くして生きてきたんだろう。その鍵はいくらです?」
「人によって異なります。大きな箱を持っている人はより高価になります。しかし、あなたは幸運に恵まれなかったとのこと。特別に手持ちのお金でお譲りしましょう」
中年男がズボンのポケットを探ると、シワになった一万円札が一枚だけ出てきた。
「これでも良いですか?」
「もちろんです」
中年男は階段を五段ほど降りて、鍵屋に一万円札を手渡し、鍵屋は古びた真鍮の鍵を中年男に渡した。
「ありがとう。これで私にも幸運が巡ってくるのか」
「そうです」
「あなたは良い人だ。それでは鍵屋さんにこれを差し上げましょう」
そう言って、中年男は竹でできたうちわを鍵屋に差し出した。
「これは、裁きのうちわです」
「裁きのうちわ?」
「悪いことをしてきた人には悪いことが、良いことをしてきた人には良いことが起こります。あなたなら良いことが起こるでしょう」
「ありがとうございます」
鍵屋はうちわを受け取り、頭を下げると、再び灼熱の表通りに歩き出した。

そろそろ戻るか。今日はひとつしか売れなかった。しかも1万円とは。まぁ、晩飯にはありつけるか。
昔はあの鍵を百万円出して買う人間もいた。金があるのに、まだ幸運を求める人たちだ。今はもうこういう商売は流行らないんだろう。巷では電話一本で大金を振り込ませる輩も増えた。オレもそろそろやり方を変えようか。
それにしても裁きのうちわだって?あの男も粋な冗談を言う。

鍵屋が歩きながらうちわであおぐと、急に太陽の光が遮られて涼しくなった。自分の周りだけ日陰になっている。
「お、不思議なこともあるな。うちわのおかげか?」

ドーン!

「大変だ!救急車!警察もだ!」
「どうしました?」
「建設中のビルの上から鉄骨が落ちたんですよ!」
駆け寄る人たちの声は、もう鍵屋には聞こえなかった。

おわり



シロクマ文芸部さんの企画に参加させていただきました。
ここ、宮城県の塩竈市も暑い一日でした。


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