黄エビネが咲く庭で (第十章 医療の利権争いの胎動)
第十章 医療の利権争いの胎動
デジタル庁長官の濱田は、デジタル庁の小さな会議室の中で一人、イライラしていた。
長官の席で、椅子に深く腰掛け、天井を見上げたり、床を見たり、部屋の隅を見たりと視線があちこちにキョロキョロしてしまっていた。
濱田は、落ち着きを全く無くしていて、腕組みに力が入っていて、足も貧乏ゆすりが止まらなかった。
その理由は、ついさっきまで、内閣総理大臣の太田から日本のデジタル・トランスフォーメーション(DX)の進捗が遅れていることをなじられ、濱田のリーダーシップや大臣としての資質などにまで説教が及んだからだ。
特に厳しく糾弾されたのは、マイナンバーカードとその所有者の金融機関口座の情報が正しく紐付けされていない事例についてだった。
「確かに、マイナンバーと金融機関の口座の紐付けでミスがあったことは事実だ。だが、それは自治体の職員が手作業でやったから起こったミスだろう!それを俺のせいみたいに言いやがって!太田のやつ、調子に乗りやがって!」
濱田は吐き捨てるように言い放った。
しかし、このマイナンバーのトラブルによって、日本全体に
「マイナンバーカードの情報は、安全に扱われるのか?安心して良いのか?」
という疑問が一気に湧き上がったことも事実だ。それを裏付ける各メディアのアンケート調査の報道も多数あった。
「忌々しいメディアどもめ!」
濱田は、さらに怒り心頭に発した。
時は少し遡る。2010年代の頃だ。
当時、日本政府は経済産業省が中心となって、日本のDX化を目指していた。
DXは、日本経済の景気浮揚のキーワードになっていた。
今後の日本の人口減少やGDPの低下を補い、日本がさらなる発展を遂げるためには、DXを活用したあらゆる産業で生産性を向上させ、短時間で高収益を稼ぎ出す仕組みを作る必要があった。そうしなければ、日本は衰退の一途を辿る危険が非常に高いからだ。
日本よりも先んじて、海外にはエストニアやデンマーク、中国沿岸部などといったDX先進国・地域がすでに存在していた。これらの国ではアプリ、電子マネー、官公庁などの書類の交付、物流、病院への受診、生活必需品の購買など、あらゆるサービスがスマートフォン1つで行えるようになっていて、住民の利便性は飛躍的に向上していた。
それらの国・地域の住民は、DXによって高い利便性に恵まれ、労働生産性が向上し、国としてのGDPもしっかり押し上げつつ、同時にDXによって新たに生まれた時間や余暇を存分に楽しんでいた。
このような他国の状況を鑑み、日本政府は我が国のDXへの取り組みの遅れを痛感した。そこで、日本政府もDX化に舵を切り、さまざまな政策立案と実行に乗り出した。
経済産業省もDXの定義を作成し、DXレポートを発出し、日本国内でのDX化の機運を高めようとしていた。
2021年9月1日にデジタル庁が発足し、マイナンバーカードを取り扱うことになった。
そのため、デジタル庁の活動の一環に、マイナンバーカードの活用の促進があった。
デジタル庁は、このマイナンバーカードの活用を促進するために、さまざまな情報をマイナンバーに集約する方針を打ち出した。そのことによってマイナンバーカードがどんどん使用され、日本国民がより便利な社会を実現する。
そのことを、デジタル庁が主導していた。
このような背景の中、病院を受診する際の保険証の代わりにマイナンバーカードを使うなど、さまざまな構想を具現化しつつあった。
政府の事業でも、民間企業のプロジェクトでも、新たな取り組みを実行してしばらくの間は、トラブルが起こらないように慎重に事を進める必要がある。もしトラブルが起これば、それらの新しい取り組みに対する批判がすぐに吹き出すものだ。このネット社会では、批判も良いこともあっという間に広まる。
マイナンバーカードも同様で、事業がスタートして間も無くという極めて重要な時期に、マイナンバーカードとその所有者の金融機関口座の情報が正しく紐付けされていない事例が発覚した。
これは、マイナンバーカードを使って、公的な給付金、例えば納税者が税金の還付金を受け取るための手続きを簡素化し、税金の還付金申告者とその税務担当者の事務の負担を軽減しながら、行政もスムーズに還付金を支払えるようにするための取り組みだった。
しかし、このトラブルが発生してしまい、日本のDX化の機運は、特に個人では一気に冷え切ってしまった。
むしろ、マイナンバーカードの制度そのものを否定し、制度の撤廃を訴える人たちが多数現れるという、政府の思惑とは真逆の世論の高まりが起こってしまった。
この状況に頭を悩ますことになった総理大臣の太田は、その怒りの矛先をデジタル庁に向けた。
このタイミングでデジタル庁長官を担っていたのが、濱田だった。
濱田は、野心家の政治家で、デジタルやITについてもある程度造詣が深かった。
「日本は、海外に比べてデジタル化やDX化が遅れている。
これが、日本の産業の振興の遅れや社会の非効率の原因だ。
その根底には、日本人労働者のベテラン層の多くが現状維持バイアスにどっぷり使ってしまっているという状況もある。
これらをまとめて解決しなければ、日本の経済の好転は見込めない」
濱田は太田にそう直談判した。太田はそのことをよく理解し、濱田を経済産業省の副大臣に任じ、その後デジタル庁長官を任じたのだ。
太田にしてみれば、全幅の信頼をおいて濱田にデジタル庁を任せ、経済産業省と一緒に日本のDXをリードしてもらうつもりだったが、実際にはこのようなトラブルに見舞われてしまった。
濱田を任命したこともあり、野党や国民から責任を追及されている太田も、怒り心頭に発していたのだった。
濱田自身も、今回のマイナンバーカードのトラブルが『手作業での入力』が原因で起こったということは、瞬時に理解できた。
「世の中にたくさんコンピュータがあるのに、なんで作業は手入力なんだ?
自治体は一体何を考えているんだ?
人間がやったらミスするに決まっているだろう!」
そんな小言を言っていた時、ちょうど厚生労働省大臣の小川が入ってきた。
濱田の秘書が、濱田が会議室に一人でこもっていることを小川に説明したところ、小川が
「ちょうどいい、濱田さんと会議室で話したいことがあったんだ」
と秘書に言い、会議室まで案内してもらったのだ。
「濱田さん、総理から随分きつく言われたみたいですね。私のところにも濱田さんが総理にだいぶ怒られたという噂が届きました」
「噂じゃないよ。本当のことだ。」
「お察しします。マイナンバーカードの件は、随分話が大きくなりましたよね。」
「ああ、もう毎日デジタル庁へのクレームの電話が殺到していて、仕事にならない」
「そうですか・・・。実は、濱田さんのお力をお借りしたいお話があって、今日ここに来たんですが、今は難しそうでしょうか・・・?」
「いや、その話を聞こう。マイナンバーカードでこれだけ世論の逆風に晒されているんだ。なんとかして挽回しなきゃならんだろう」
小川は濱田に気づかれない程度にほんの少しだけうっすらと口元に含み笑いを浮かべ、濱田にこう告げた。
「今度、厚生労働省が中心となって、日本の医療のDX化を推進するための勉強会を立ち上げます。
将来はこの勉強会を、より規模が大きい協議会、あるいは戦略会議にまで育てるつもりです。
今後は日本の医療のDXの方向性や具体的な取り組みなど、あらゆる医療DXをこの協議会で検討して政策に盛り込み、厚生労働省がその実現に動きます。
濱田さん、デジタル庁からも、この勉強会に参加しませんか?」
「小川さん、それは非常に面白い会になりそうだね。厚生労働省とデジタル庁でその勉強会をするのか?」
「経済産業省にも入ってもらいます」
「財務省はどうする?」
「もちろん、財務省に参加してもらっても良いと思っています」
興味津々に、矢継ぎ早に質問する濱田の様子を見て、小川は濱田が大変乗り気になっていることを早々に感じ取った。
濱田は、意欲満々に呟いた。
「日本の医療DXの全ての発端がこの会になりそうだな」
「ええ、そういう会にするつもりです」
「民間企業のアドバイザーなども募るのか?」
「数社は入れた方が良いでしょうね。さまざまな意見や見解が欲しいので」
「了解した。ではデジタル庁からは俺ともう数人、人選して参加する。もっと多い方がいいか?」
「いえ、最初はそれくらいで良いと思います。厚生労働省からも私の他に数人が参加する予定です。人数は少なめに、各省庁から同じ人数を出しましょう」
「そうだな。日程と場所が決まったら教えてくれ」
「分かりました」
そう告げると、小川は会議室を出て行った。
濱田は
「この会をリードして、なんとしても名誉挽回するぞ!」
と心の中で固く固く誓った。
吉田の会社の社員である鈴木が、厚生労働省に連絡を入れようとしていたのは、この後のことだった。
(第十一章に続く)
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