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黄エビネが咲く庭で (第十一章 活用しにくい日本の医療のデータ)

第十一章 活用しにくい日本の医療のデータ

 医療には、さまざまな人たちが関係している。
 患者さん、患者さんのご家族、医師、看護師、薬剤師、さまざまな検査の技師、社会保険庁や都道府県及び市町村など、官民問わず幅広い職種・業種が医療に関わっている。
 病院や診療所、クリニックなどで見かける外来のパソコン(電子カルテや検査の指示を出すオーダリングシステムなど)も、その専門のIT業者が医療機関をサポートしていて、やはり彼らも医療に関わっている。
 
 ベッド数が1,000床前後の大規模な病院だと、院内の電子カルテやさまざまなシステムを導入したり、入れ替えたり、システムの保守・運用も含めると、それらの費用が年間で数億円〜数十億円に上ることもある。
 費用は、どれくらいの規模のシステムを病院に導入するかなどにもよるが、大手ITベンダーから見るとこの金額は魅力的に見えるらしい。

混沌としている日本の医療のIT 

 吉田たちによる『日本の医療のITについての調査』の結果、様々なことが分かってきた。

 医療に関わるITベンダーは、各社が自前のノウハウなどを駆使して、電子カルテなどの画面の使い勝手の向上や、データを保持するデータベースやサーバーのセキュリティ向上などに力を入れている。
 そしてそれらは、各社が独自に動いている。
 このことが、実は日本の医療の質を評価する際、非常に難しい状況を作り出してしまっている。 

 海外では『患者さんのデータは、患者さんのもの』という認識が強い。
 一方、日本では患者さんが、『医療は医師に任せる意識が根強い』ということもあり、患者さんも医療者も『患者さんのデータは、病院のもの』と考えている。
 そのような背景があるため、医療機関側は、その医療機関が使いやすいように、電子カルテなどのITシステムをカスタマイズしてしまう。
 『大枚を叩いているのだから、こちらが使いやすいようにカスタマイズするのが当然だ』
という言い分もあるのだろう。

 IT業界において、世界ではシステムのパッケージを大幅にカスタマイズすることは一般的ではない。
 だが、日本ではさまざまな業界で、顧客がITのシステムを顧客の意のままにカスタマイズすることは常態化している。
 しかも、それが長年続いているので、医療機関側もシステムをカスタマイズすることに疑問を持たなくなってしまっている。
 病院個別のカスタマイズによるデメリット(カスタマイズによってデータの構造がバラバラになると、日本全体の医療の質を評価することが非常にやりにくくなってしまうこと)にも、医療機関側は気づいていない。
 このような日本独自の商慣習も、吉田たちをがっかりさせた。
 
 その結果、患者さんの診療のデータを格納するデータベースが多種多様に出来上がってしまい、乱立することになった。
 この状態では、幾つものデータベースをまたがって特定な項目だけを集計するような作業は、極めてやりにくい。
 だから、このままでは日本の医療の質を分析することすらできない。

 日本の医療の質を評価するために、電子カルテメーカー同士で会社の垣根を超えて診療のデータベースを解析しようとすると、日本ではこれもまたうまくいかない。
 一部のITベンダーたちは、電子カルテのデータベースの設計を共有しているが、それ以外の電子カルテのメーカーは、自分たちの技術を公開することに非常に消極的だ。
 提供できるデータに制限を課しているメーカーもある。
 自分たちの技術を盗まれかねないリスクもある。

 データベースの構造だけでなく、データそのものにも課題がある。
 電子カルテのデータは、医師が文章で入力する箇所がいくつもある。
 このままでは、文章のデータは集計には使えない。集計しやすいフォーマットは、単語(文字列)や数値だからだ。
 だから、文章で入力されている情報を、集計解析できる形にする(構造化)作業も必要だ。

 電子カルテの入力が正しいのかも、検証が必要かもしれないと思われた。
 吉田たちの情報収集の時に、
「医師が電子カルテに患者さんの検査データをきちんと入力していない」
と嘆く大学病院の教授もいたからだ。

 さらには、医療のデータを活用するためにさまざまな法律も理解する必要がある。
 個人情報保護法や、次世代医療基盤法、医療法などの理解は必須だ。
 電子カルテ内のデータは、究極の個人情報の塊である。
 だから、その個人情報を扱うことを許されるのは、限られた認定業者だけだ。
 データも個人名を完全に匿名化し、患者さんが特定されないようにしなければならない。
 ここにも吉田たちに立ちはだかる高いハードルがあった。

 これらの地道な作業を経て日本の医療のデータを作り出し、日本の医療のデータを解析することで初めて、日本の医療の課題がどこにあるのか?や、うまくいっていることが何か?などを、ようやく検討できると考えられた。

 吉田たちにとって、このプロジェクトは途方もない、出口が見えないプロジェクトにだんだん思えてきた。
 吉田たちが調べたこれらのことから言えるのは、現時点では日本の医療の質を評価できるデータが非常に乏しいし、取り組みが大規模になるということだ。
 日本は世界に冠たる最高水準の医療を提供できる国の一つだが、医療のデータの扱いやリテラシーにおいては世界最高水準ではないようだ。
 吉田たちは、日本の医療のデータについて、知れば知るほどに暗澹たる気持ちになっていった。

もう一つのデータ『レセプトデータ』

 吉田たちの『医療ビッグデータを扱う新規サービスの開発プロジェクト』のメンバーたちが医療に関わる様々なデータを調べているうちに、電子カルテ以外に興味深いデータがあることを知った。
 レセプトデータだ。

 レセプトデータは、患者さんが健康保険証を使って医療機関を受診した際、医療機関が発行する「診療報酬明細書」のデータのことだ。
 健康保険を利用して医療機関を受診する場合、私たち患者さんは現状、そこで費やした医療費のうち最大3割を負担する。残りの7割以上は、健康保険組合や市町村などの保険機関が医療機関に支払っている。この支払いが診療報酬だ。

 診療報酬の財源は、現在税金や国債などで賄われている。
 日本の政府の予算は、年金など天文学的な巨額の支払いがあるため、日本の予算は税収だけでは賄うことができない。
 こういった背景があり、例え医療であっても、無駄な税金の使われ方は認められない。
 そのため、毎月全ての患者さんが受診した診療データをチェックして、健康保険で認められている適切な医療行為が提供されていることを審査支払機関が確認した上で、医療機関に費用を支払っている。
 この時、各医療機関からレセプトデータが審査支払機関に集まり、審査を経たレセプトデータが保険機関に届く。

 このレセプトデータには、その患者さんの受診日、病名、検査内容、手術内容、医師の指導料、処方された薬の内容など、患者さんが受けた医療行為で、かつ、医療機関が行ったもので国の保険で認められた医療行為がデータ化されている。

 すなわち、レセプトデータを使えば、毎月の全ての医療機関で行われている医療行為の内容が患者さんごとや疾患ごとなどで分析できることになる。しかも、レセプトデータのフォーマットは統一されていて、電子カルテのようにデータの構造がバラバラということもなかった。
 これは、様々な集計や分析をするなら、電子カルテのデータよりもレセプトデータの方が適しているということである。ここに吉田たちは注目した。
 しかし、レセプトデータについてさらに詳しく調べていくと、吉田たちは再び壁にぶつかった。
 レセプトデータには検査項目はあるが、その検査値までは入っていないことが判明したのだ。

 これは、審査支払機関が検査値データを集めていなかったからだ。
 レセプトを審査する時、どのような検査がなされたかが保険の支払いの際に重要なのであり、その検査結果の数値がどうだったかは保険の支払いに関係がない。そのため、データを集めていなかったのだ。
 一部の患者さんのレセプトデータの検査項目には検査値が入っていることもあったが、大半はデータが欠損していた。そのため、レセプトデータ単体では、治療の結果、検査値がどのように変動したのかが分からないのだ。
 すなわち治療効果があったのか、いつ頃に治療効果が現れて、いつ頃治療が終了するのか、患者さんは治癒に至ったのか、どのような転機を辿ったのかといった治療効果の推移を解析することができないのだった。
 
 この問題を、日本の医療の世界では放置されてきた。
 正確に言えば、厚生労働省もデータに基づいて、医療の効果を様々に分析したかったのだろうけれども、それを具体的に実行するには、前述の電子カルテのデータベースの問題や、レセプトデータの検査値データの問題があり、簡単には手が出せていなかったと考えられた。

医療の質を評価するということ

 ここまで調べた内容を、吉田の医療関連のプロジェクトメンバー全員で共有した。
 一通り調査内容を確認した吉田は、
「やっぱり日本の医療には、バックキャストの考え方がないな。あとで治療成績を分析しようと思ったら、データベースのフォーマットは絶対に統一しておかなければならないのに。」
と、やや呆れ果てたように言った。

「そもそも医療のデータを分析して、医療の質を評価して、その質を向上させるには、どういうことがわかったらいいんだ?どうしたら評価できるんだ?」
ということも議論していた。
 しかし、医療職ではない吉田たちでは、医療の質を評価するなど全く見当がつかなかった。次第に吉田たちは、途方に暮れていった。

 その中で、蒼生は
「レセプトデータに検査データが入っていたら、これだけで相当使えるデータになりそうなんですけどね。」
と何気なく呟いた。
 それを聞いた吉田は
「そうだな、そのデータを作れれば、日本の医療の質を分析することができる」
と頷きながら応えた。
 プロジェクトメンバー全員が、はっと気が付いたようにお互いの顔を見合わせた。そして、そうだよな、そのデータを作れれば、データ解析のシステムは我々が開発できるよな、と一気にメンバー全員の顔色が明るくなった。

 問題は、レセプトデータの検査項目の欄に、どうやって検査値を入力させるか、だった。

 蒼生の先輩の鈴木が
「僕、自分の人脈からもっと情報を集めてみます。
 医師じゃないですけど、高校の同級生が厚生労働省に勤めています。
 彼から医療についての課題やら、困り事を聞ければ、僕たちの今後のサービス開発にも役立つかもしれません」
と言った。
 吉田は
「鈴木の知り合いの方が、我々の力になってくれたらありがたいな。ぜひその方にもコンタクトしてくれ」
と、言葉に熱を込めながら鈴木に言った。

 さらに吉田は、この医療のプロジェクトのメンバーに、
「まずは差し当たって、このプロジェクトを2つに分ける。レセプトデータのチームと、電子カルテデータのチームだ。
 レセプトデータのチームは、レセプトデータを分析できるシステムを作ろう。そして、レセプトデータを一層活用するためのデータの充実化を検討しよう。こちらはより短期に結果を出すために取り組む。

 それと並行して、電子カルテデータのチームは、複数のデータベースを柔軟に連携させ、一つの巨大な電子カルテのデータベースを柔軟に作り出せる仕組みを作ろう。こちらは時間がかかるが、もともと我々が持っている技術をもとにしたら、開発工数を少しは短くできるかもしれない。
 何より、完成したら様々な価値を生み出せて、日本の社会課題の解決や医療の質の向上につながる本命のデータ分析システムだ。長期の取り組みになるが、粘り強く取り組もう。

 日本の医療の質を精緻に分析し、日本の医療の質を高めよう」
と指示を出した。
 
 蒼生と鈴木は、レセプトデータのチームにアサインされた。吉田は両方のチームを統括しつつ、電子カルテデータのチームをより手厚くサポートすることになった。
 吉田の会社は、新たな事業の着手に大きく動き出した。
 そして、新たな局面を迎えることになった。

(第十二章に続く)

 


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