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黄エビネが咲く庭で (第九章 課題だらけの日本の医療)

第九章 課題だらけの日本の医療

 吉田と蒼生は、他のプロジェクトメンバーと一緒に、日本の医療のビッグデータとその生い立ちについて調査を始めた。

 調査の対象は下記のとおりで、それらをプロジェクト内のメンバーが分担して調査し、その結果は随時プロジェクトメンバー全員にシェアされた。
・日本の厚生労働省が推し進めようとしている医療の提供体制
・日本の医療の仕組みの更なる理解
・それらを支えているIT技術の調査
・それらの課題の探索
・その他、医療とデータに関するあらゆること

 蒼生たちは、調査を進めていくうちに、新たに気づいたことがいくつもあった。
 例えば、内閣府や厚生労働省などのホームページでは、下記の情報を公開していた。

  • 日本の人口は近年減少局面を迎えていること

  • 2070年には総人口が9,000万人を割り込み、高齢化率(総人口に占める65歳以上人口の割合)は39%の水準になると推計されていること

  • 団塊の世代の方々が全て75歳となる2025年には、75歳以上の人口が全人口の約18%となり、2040年には65歳以上の人口が全人口の約35%となると推計されていること

  • 15~64歳人口(生産活動を支える人口)は、平成7(1995)年に8,716万人でピークを迎え、その後減少に転じ、令和元年には7,507万人と、総人口の59.5%となったこと

  • 2070年には、日本の総人口が8,700万人にまで減少すること

 ところが、このような重要な情報はホームページに公開されてはいるものの、国民に周知させるような取り組みは、ニュースで報じられることを除けば、あまりみられなかった。

 また、この日本の人口減少や、高齢化率が急激に進むことは、日本の医療の提供体制にも大きく影響していることもわかってきた。
 日本では病院や診療所などを受診したり、入院すると、さまざまな医療行為が受けられる。それらの医療行為の内容と費用は診療報酬と呼ばれる。
 この診療報酬は2年に1回、都度その時期の日本の経済や新しい医療行為の登場、日本政府の予算などを踏まえ、医療行為の内容と費用が見直される。
 この時に、日本にどれくらいの人数の高齢者がいて、病院にはどれくらいの入院のベッドが必要なのか、医療行為や薬代などは効果に見合っているかなど、多岐にわたって考慮される。そして、治療や検査など医療行為や薬代など日本の医療に係る費用全体の適正化が図られる。これが診療報酬改定だ。
 
 これらの日本全体の医療に関わる貴重な情報が、なかなか日本人には知られていないことが吉田や蒼生には新たな気付きだった。吉田や蒼生にしても、仕事で医療について調べなければ、きっと知ることはなかっただろうと思い知った。

 考えてみれば、健康な人は病気にならなければ病気のことはもちろん、医療のことを調べようとは思わない。体調を崩してから、初めて病気のことを調べ始める。吉田も蒼生も同じだった。医療とは、健康な人からすれば全く無縁の存在である。従って、医療についての情報が日本人全員に広く周知されることは、現状では望み薄だと思われた。

 吉田たちは、日本の医療に関わる厚生労働省などの資料を読み込んでいくうちに、ある疑問が湧いてきた。それは、『日本の医療の質が高いのか低いのかが分からないのだが、それはなぜか?』ということだった。
 
 日本の医療の仕組みの根幹である診療報酬は、その資料を調べてみると「見直す」「評価する」といった言葉が多数散見される。
 しかし、その見直しや評価によって、医療の質の向上につながったという分析結果は、簡単に見つからなかった。見つかっても断片的な結果であることも多かった。
 政府や厚生労働省などで行われる様々な会議の議事録を読むと、以前と比べてこういうことが改善されたといった文言が散見されるのだが、吉田や蒼生からすると「だから、結局日本の医療の質は良くなったのか?」ということが今ひとつよく分からなかった。
 これは、民間企業の業績評価や企業の経営戦略を日々扱っている吉田からすれば、心底信じられないことだった。

 企業の業績を評価するからには何らかの評価指標が必要だし、その指標が業績などを評価するために適切かどうかという検証も必要だ。
 投資した金額に見合う利益(リターン)が得られなければ、社会や株主、顧客、市民などから「その企業は成長していない」と評価される。
 その評価は、企業の株価などにも影響するから、経営陣にとっては企業の経営の舵取りに、極めて重要な意味を持つ。
 しかし、その評価が、厚生労働省の取り組みの中に見当たらないのだ。

 もちろん、厚生労働省の立場から見れば、医療の質を評価するための最適な考え方などは検討されているし、いくつかの事例では費用対効果も検証されている。だがそれはすべての医療行為について行われているわけではない。
 そもそも医療に費用対効果の考え方はそぐわないとか、患者さんによって状況が異なるから一概に医療を評価することは不適切だ、などの考え方もあるだろう。

 しかし吉田は、
「日本政府や厚生労働省など、医療に関わる省庁は、一体何をもって日本の医療の質がどのように変化したのかを評価するのだろうか?

 日本は国債の長年の発行によって多額の借金を抱えているが、そこまでして国の予算を捻出し、使ったのに、その評価をしないのか?費用対効果の分析をしないのか?医療に予算を使った結果、日本のGDPにどれくらい影響が出たのかを知る必要はないのか?
 
 病気になった人が元気になって長生きして、さまざまな消費活動をしてくれたら、日本の経済に良い影響が出るはずだ。そこに医療に使った予算の意味がある。
 
 個人の消費活動にはさまざまな要因があるはずだから、医療が直接日本のGDPを上昇させているとは言わないが、とはいえ予算を使ったらその結果どのような変化が見られたのかの検証は必要なのではないか?
 企業が自社の予算を使った結果を検証しなかったら、株主からの追及に応えられないし、それでは銀行は出資してくれなくなるし、経営状況が悪化するぞ」
 と、強烈な不安と、明日をも知れない日本の行く末に恐怖と危機感を感じた。

 一方、蒼生たちは日本の医療のビッグデータのデータベースについて、調べていた。
 日本の医療のビッグデータには、いくつかあり、それぞれに特徴や背景があることがわかってきた。
 その中で、吉田や蒼生がチャレンジしようとしている日本の医療に質の向上に使えそうなビッグデータには、医療機関の電子カルテのデータ、レセプトデータ(医療費のレシート、提供された医療の内容のデータ)と特定健診データ(40歳〜74歳までの国民健康保険等の公的医療保険加入者全員を対象とした健康診断の結果のデータ)があることがわかった。

 日本に住む多くの人は、その人の働き方や年齢によって加入する保険は異なるものの、国民皆保険制度によって、社会保険(国民健康保険)か国民保険、あるいは船員保険や共済組合、後期高齢者医療制度など、いずれかの保険に加入することが定められており、そのおかげで日本に住む人は皆、日本の医療機関を受診できるようになる。
 そして、それぞれの保険に加入している人が病院を受診した際、どのような治療を受けたのかといったデータは、その人が所属している保険のデータベースに格納されている。

 したがって、会社員の人が受けた治療のデータ(氏名・年齢・性別・実施した検査名(検査結果は含まれない)・病名・治療薬など)は社会保険のデータベースにある。
 同様に、自営業や農業の人が受けた治療のデータは国民保険のデータベースにある。

 そして、それらのデータはバラバラに存在していた。
 だから、日本で今行われている治療がどれくらい効果があったかや、どれくらい安価に済んだかなどを検証しようとすると、それぞれのデータベースで分析しなければならないことがわかった。

 さらに、もともとそれらのデータベースは、日本政府が医療費を税金で賄う(保険償還)ために使うものであり、データベースに格納されているデータを分析する目的で設計されているわけではなかった。
 データ分析という目的が初めからあるならば、本来なら日本の全ての患者さんのデータが一つのデータベースに集約されて然るべきである。
 どうしても社会保険や国民保険といった保険ごとにデータを分けなければならないなら、医療の質を評価分析するデータの専門家がそれぞれの保険にいて然るべきだ。
 
 ところが、日本の医療の保険制度では、

  • はじめにゴールを設定して、そこから振り返って現状とのギャップを明らかにし、それを埋めるために今なすべきことを優先順位をつけて取り組むバックキャストの思考

  • 実際に行ったことを振り返って、データに基づいて分析し、次に活かす思考

が少々不明瞭だった。

 蒼生たちが調べたこれらの情報をまとめて吉田に報告した。
 その報告を聞いていた吉田は、うんうんとうなづきながら、おもむろに語り始めた。
「バックキャストの考え方が日本の医療制度の中で明確になっていないことは、非常に大きな気づきだな。ありがとう。
 これは日本の医療の制度だけでなく、多くの日本人や日本の産業に共通するのかも知れない。」
「日本人や、日本の産業、ですか?」
 蒼生は吉田に尋ねた。

「ああ、そうだ。
 日本人は、今あるもので、目の前の問題を解決するということは、他の国の人たちよりも優れているかも知れない。
 でも、ゼロから何かを立ち上げたり作る時、完成後の運用まで視野に入れて、モノや制度、サービスなどをデザインするのは、日本人よりも他の国の人たちの方が優れていることもある。
 今回、日本の保険制度を調べてみて、改めて日本の課題が浮き彫りになった気がするよ」
 吉田は、体をちょっと左右に揺すりながら、ひどく凝り固まった自分の首筋と肩を自分で揉みながら、そう語った。

 蒼生は、自分たちがまとめたプレゼンのスライドを眺めながら、
「これからの日本は、人口が減少し、社会の少子高齢化が進み、医療にかかる費用が日本の予算を逼迫し続ける状況が続くと見込まれています。
 この状況を乗り切るために、厚生労働省は地域ごとに最適な医療を提供する体制を作る方針です。
 でも、医療の業界誌の記事などに、病院の院長らが『厚生労働省のプランは絵に描いた餅だ』というコメントが散見されます。
 どうも、医療の現場と日本の政府や省庁との間には距離がありそうです」
と吉田に伝えた。

 吉田は自分の首筋を揉みながら、
「そうだな。ここまでいろいろとわかってきた上で、次はどうする?」
とチームのメンバーに尋ねた。
 蒼生が
「まずは厚生労働省にコンタクトしてみて、医療の質を評価する方法についてディスカッションしたいです。その上で、社会保険と国民保険と後期高齢者医療制度のデータベースを繋いで、患者さんのデータを一つのトラックに繋いで、医療の質がどれくらい高まったのかなどを評価可能か、POC(Proof of Concept:概念実証)を提案してはいかがでしょうか?」
「そうだな、妥当なアプローチだな。誰か、厚生労働省とパイプを持っている人はいるか?」
吉田が尋ねた。

「はい、僕の高校の同級生が今厚生労働省で仕事してます。僕が当たってみますよ」
 蒼生の先輩の鈴木が答えた。
「よろしく頼むよ。コンタクトしつつ、医療の質を評価する方法についてのディスカッションのための資料も、用意しておこう」
「はい、では蒼生と資料の叩き台を作成しますので、3日後くらいに再度ミーティングをさせてください」
「ああ、わかった。では、今日のミーティングはここまでとしよう」
 ミーティングに参加した全員の顔に、いよいよ国との仕事、医療での仕事が始まるという予感と、そこに携わることができる喜びと、まだ先が見通せていない不安が入り混じっていた。

 だが、何も動かなければこれまでと同じ状況が続くだけだ。
 まずは動いてみよう。前例を疑ってみよう。
 吉田の会社のメンバーは、皆同じ思いを抱いていた。

 一方、厚生労働省を中心に、政府や財務省など、日本の医療に関わる多くのステークホルダーに、さまざまな思惑が渦巻いていた。

(第十章に続く)

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