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黄エビネが咲く庭で (第十三章 日本の医療の課題)

第十三章 日本の医療の課題

 松坂のスマートフォンが鳴った。メールをしてきたのは、高校の同級生の鈴木だった。
 鈴木からのメールには、近々、松坂の仕事終わりに会いたいということが書かれていた。
 松坂は、鈴木がIT企業で仕事をしていることを知っていた。最近はお互いに忙しくしていたから、会うのは久しぶりのことだった。
 松坂は鈴木に、
「仕事の後に会って飲みながら話そう、日時と場所を調整させてくれ」
と返信した。

 松坂と鈴木が会ったのは、その1週間後の夜のことだった。二人とも、偶然この日の夜は空いていた。とは言っても、飲み始めたのは21時を過ぎた頃からだった。
 松坂も鈴木も腹が減っていたため、最初からお酒を飲むと悪酔いしそうだということで、食事を多めに、お酒はほどほどに、と注文した。
 さほど待たずに、海鮮サラダと肉豆腐、焼き鳥、だし巻き卵、肉じゃがなどが並んだ。鈴木は生ビールで、松坂はウイスキーのハイボールで乾杯した。

「松坂、一緒に飲むのは久しぶりだな。いつ以来だ?」
「多分、一年前の同期揃っての厄払いの後の飲み会以来じゃないか?」
「そうだ、それ以来だ。1年以上会ってなかったってことか、俺たちは」
「そうだな、あの時はずいぶんたくさん同期が集まったから、鈴木とはゆっくり話せなかったよな」
「あぁ、そうだった、そうだった」
 キリッと冷えた生ビールを一口飲んだところで、松坂が切り出した。

「ところで鈴木、急にメールくれるとは、何かあったか?」
「そうそう、松坂にちょっと折り入って教えてもらいたいことがあってな」
 鈴木は生ビールを一口飲んで、一息ついてから相談をし始めた。

「今、うちの会社では、医療の世界に新規参入しようかと考えていてな。特に注目しているのは、日本の医療の質をデータで分析することなんだ。」
「ほう、それは興味深いな」
「そうだろう?毎日の病院で行われている医療が、実際のところ、治療効果や費用対効果などはどうなんだろう?、患者さんのお金の負担は得られた効果に見合っているのだろうか?、など、そういうことを分析したら、日本に住む人たちがより安心・安全に生きていける国になるんじゃないかなぁって考えているんだ」
「ふーん・・・」
 松坂はじっくりと耳を傾けた。
 鈴木は、松坂の反応が前向きだと感じた。口調も少し熱を帯びてきた。
「でも、実際のところ、こういう医療のデータの分析は、日本の社会の中で必要とされているのかとか、その医療の質を分析したらどのような顧客とどのようなビジネスができるのかとか、厚生労働省はこういう医療の質の分析と向上についてどう考えるのかとか、そういうことが今一つ明確に分からないんだ」
「うん、うん」
「それで、こういうことを相談できるのは松坂しかいないと思って、今回メールさせてもらったんだよ」
「なるほどね、よく分かったよ。だから今日は個室を予約したんだな。いい選択だ」
 松坂もハイボールを一口飲んで、ゆっくりと、言葉を選びながら話し始めた。

鈴木が語る日本の医療の現状

 「その前に、まず聞かせてくれ。鈴木は今回、日本の医療についてどこまで調べたんだ?」
 松坂は興味津々に鈴木に尋ねた。
 鈴木は、自分たちが調べたさまざまなことを一切隠すことなく、松坂に伝えた。

  1. 2023年の日本の予算は114兆円あまり、そのうち医療費を含む社会保障関係費は約36兆9,000億円近くに上ること、国の予算の32%以上が医療・介護・年金に使われていること

  2. 将来の日本は、2040年には65歳以上の人口が全人口の約35%、3,925万人となると推計されていること

  3. 2070年には総人口が9,000万人を割り込む一方、高齢化率は39%、高齢者人口は3,367万人になると推計されていること

  4. つまり、日本全体の人口は大きく減少するが、高齢者の人口はさほど減らないということ

  5. 高齢者ほど様々な病気を患いやすいから、患者も増え、そのために医療費も増大する。これに加え、高齢者のための年金と介護の費用がさらに必要になる。これが日本の予算を逼迫させる大きな要因の一つになっていること

  6. 今のままの医療・介護・年金等の諸制度であれば、今後の日本の国家予算に占める社会保障関係費は増加する一方だということ

  7. このように、事実を積み重ねていくと、社会保障関係費は日本の予算を逼迫し続けていることが分かり、この状況を解決するためには、日本の医療には一層の効率向上と費用対効果の向上が求められるのではないかと考えたということ

  8. 2000年以降、日本でもインターネットが急速に広がり、IT技術も爆発的に進歩した。それらを契機に、厚生労働省は日本のデジタル技術を駆使して、日本の医療をITで効率を高め、コストを下げながら持続可能な医療提供体制を提供しようと考えて、様々な施策を実行してきたこと

  9. 例えば『電子カルテの普及の後押し』や、『そこからのデータの活用促進』、『医療のITネットワークの連携促進』、『診療報酬改定での費用の最適配分』、『薬価改定での薬価全体の伸びの抑制』など、多岐にわたって医療費の伸びを抑制しようとしてきたこと

  10. しかしながら、それらの取り組みは、日本の医療費を部分的に抑制できたように見えるが、継続的に医療費のコストを下げる仕組み作りにはまだ時間がかかりそうに見えること

  11. そもそもIT技術を医療に導入したことが、日本人の寿命の続伸や、治療の成功確率の向上、患者さんの満足度に貢献できているのかが、全く分からないし、評価もできないこと

 ここまで一気に話した鈴木は、また生ビールを一口飲んだ。
 一生懸命に話す鈴木を見て、彼らが調べたことを聞いて、松坂は
「すごく良く調べてるじゃないか。我々が危惧していることも把握しているし。さすがだな」
と、鈴木たちの調査を高く評価した。

「で、鈴木たちはそこまで調べたんだったら、何かアイディアは浮かんできたんだろう?」
 松坂はおもむろに鈴木に話を促した。
 鈴木はちょっと照れくさそうに笑いながら、
「素人集団の考えだから、あまりからかわないで聞いて欲しいんだが・・・」
とつなぎ、鈴木や吉田、蒼生たちと一緒になって考えたアイディアを話し始めた。

「IT企業の立場からすると、いろいろと見えてきたことがあるんだ。
 その前に、ある患者さんのご家族の話から聞いてくれ。
 そのご遺族のお母さんは、膠原病患者だった。膠原病以外にも大動脈を人工血管に交換するなどの難しい手術して、医師から見ても治療が非常に難しい患者だった。
 でも、その患者さんに対して、『最適な医療が何か』を過去の診療のデータから解析できず、医師の裁量と判断だけで治療が施された。これが良いとか悪いとか言いたいわけじゃない。これが今の日本の医療の現状だ。
 そのお母さんのご遺族は、『もし日本の医療のデータがもっと様々な分析に使えるなら、母にとって最適な治療方法は別のものになっていたかもしれない』と、今、本気でそう思っている」
 ここまで話して、鈴木は小さく「ふぅ」と息を吐いた。

「なるほど。それで?」
 松坂は、話の続きを鈴木に促した。

医療データの活用が遅れている日本の医療

「今回僕らが日本の医療について調べたところ、医療の質を高めるにはデータの力が必要なのだが、日本はその整備が遅れているということが分かったよ。

 現在の電子カルテは、患者の個別のデータを見るには十分だが、全国の医療機関の電子カルテから患者データを多数集めて治療の効果を分析しようとすると全く役に立たない。このような分析をしようと思っても、患者データを全国で統一すること自体が、極めて時間と費用を要すると容易に想像がついた。
 
 その背景として、日本の医療のITのサービスと利用する病院の関係が関わっていそうだよね。日本国内には、電子カルテメーカーが何社もあり、彼らは個別の病院からの要望で電子カルテのシステムのカスタマイズが求められる。

 その結果、病院ごとに医療データのフォーマットが異なってしまい、それらのデータベースを統合するにはデータのずれや欠損などが多数生じているみたいだね。
 
 このような状況だと、日本の全部の医療機関の電子カルテのデータを一つのデータベースに統一して、集計、解析しようとすると、データベースの統一だけでもいつになったら完成するのか、さっぱり想像がつかない。
 それくらい、電子カルテは乱立しているということが分かったよ。

 それに、患者さんのデータを分析すること自体が、難易度が高いように僕らには見える。病院は電子カルテの中の患者さんのデータを活用することには、あまり積極的ではないようだ。

 そこで僕らは、電子カルテデータだけでなく、レセプトデータも調べてみたんだ。
 こちらのデータは、電子カルテデータよりも分析に使えそうだということがわかった。データがある程度構造化されているみたいだからね。

 でも、レセプトデータは患者の治療経過やその治療効果を評価する際、検査データの数値が入っていない検査項目がたくさんあった。

 日本の医療の保険制度では、社会保険や国民保険では、保険償還に必要なデータだけを扱っている。病院の検査が日本の国民保険や社会保険で賄える検査かどうかだけをみている。検査項目の有無だけが分かればよくて、検査結果の数値は保険では必要ない。だからレセプトデータは各種検査の検査値が含まれていない。
 だからレセプトデータを使って医療の質を分析しようとすると、得られる分析結果は限定的なものになってしまう。

 ということで、現状の日本の医療に関連するデータを活用して医療の質を分析しようとすると、中途半端な結果になってしまうことを僕たちは危惧している」

 鈴木は松坂の表情を伺いながら、話を繋げた。

日本はバックキャストで考えることが苦手か

「こう言ってしまったら角が立つかもしれないが、松坂だから敢えて言うと、元々日本の政府や厚生労働省には、日本の医療機関の電子カルテのデータベースを統合して解析しようというアイディアが無かったのだからしょうがないよね」

 松坂は、自分のハイボールを見つめながら、一口飲んで、鈴木の話を待った。
 鈴木は
「ITを生業にしている僕らの場合だと、本来DXを推進するならば、DXによって何がどのように変化したのか?や、その功績はどれくらいだったのか?など、さまざまな観点から『評価』されることを前提にDXを設計しなければならない。
 そうでなければ、クライアントは『投資した金額に見合うリターンが得られたかどうか?』を評価できないからね。
 そのためには、DXのシステムのデータベースを最適に設計しなければならない。

 つまり、ゴールが何で、ゴールにたどり着いたかや、たどり着いていないなら自分たちはどこにいるのかを知る、ということのために、ゴールから考えて、今の目の前のシステム作りを考えないといけないということなんだ。
 これが、バックキャストの考え方だよね。
 しかし、従来から日本では、このようなバックキャストの考え方、すなわちゴールから逆算してシステム開発などを考える思考が非常に弱い。

 僕らは、日本のヘルスケアや医療のデータおよびシステムについて調査を進めるうちに、日本の医療のDXについて根本的なパラダイムシフトが必要なんじゃないか?ということを、徐々に気付き始めたところだよ」
 鈴木は、ここまで一気に話して渇いた喉を、生ビールで潤した。生ビールの苦味と炭酸の刺激が、さっきまでよりほんの少しだけキツく感じた。

 松坂は鈴木の話を黙って聞いていた。少し間を開けて、松坂は
「うん。さすが鈴木と御社の調査結果だ。我々が考えている課題とかなり近い考えだと思うよ。
 じゃあ、鈴木は具体的な解決策として、どういうことをやったらいいと思う?」
と鈴木に意見を求めた。

日本の医療を改革することに、どこまでコミットできるか?

 鈴木は、悩ましげな表情で話し始めた。
「具体的な解決策の前に、覚悟を決めることが必要じゃないかな。
 IT企業としては、単純にシステムだけの問題なら、如何様にでも解決できると思う。
 だけど、肝心のデータが貧弱だと、いくら優れたシステムを作っても得られる結果は貧弱だ。

 それに、僕らの構想は『医療の質の向上』に貢献できる医療データを作り出し、それを分析し、日本の医療の質が実際に向上しているかを評価できる仕組みを作ることだ。

 医療には患者さんやご家族、医療者、病院と取引しているベンダーなど利害があるステークホルダーが非常に多い。
 国も医療に関わるし、さまざまな制度もある。
 それら全てを相手に、僕らは『パラダイムシフト』を起こす取り組みを始めるということになるだろう。
 国が日本の医療費の3〜4割を負担しているから、国だって黙っていないだろう?

 それらを全てひっくるめて、『日本の政府は、我が国の医療の質を、データに基づいて一層向上させたいと思っているか?』を僕らは知りたい。それによって、僕らができることが変わってくるだろうね」

 それを聞いた松坂は、
「う〜ん・・・。なるほどな・・・。」
と個室の天井を仰ぎながら唸った。
 その様子を見ていた鈴木は、内心
「(松坂を少し追い詰めるような口調になってしまったかな?)」
と若干の不安を感じながら、松坂の表情をチラリと見て、酒の肴を頬張った。

 松坂は、
「鈴木の会社って、ITで有名な吉田社長のインフィニティヴァリューだったよな?」
と鈴木に聞いた。
「ああ。そうだよ」
「じゃあ、知名度も技術も文句なし、か・・・」
「ん?なんのことだ?」

 松坂は、ほんのわずかに目の鋭さを増して、話を続けた。
「鈴木の話を聞いて、俺の頭の中が整理されたよ。うん、ありがとう。ところで、御社は省庁との仕事の経験はあるか?」
「うん、多少は仕事を受注している」
「省庁の公募にも応募したことはあるか?」
「もちろんあるよ」
「OK」
 松坂は少し目尻が下がり、柔和な表情に戻った。そしてハイボールを三口ほどグビグビ飲んで、満足げな表情のまま、酒の肴を口に何度も運んだ。

 鈴木の頭の中は、クエスチョンマークだらけだったが、松坂が喜んでいるように見えたので、鈴木は自分の話が少しは松坂に役に立ったのだろうと感じ、ジョッキの中に残っていた一杯目の生ビールを飲み干した。

 松坂の真意が掴めそうで掴めきれない鈴木は、松坂に率直に聞いてみた。
「なあ、松坂、どうだろう?僕らは『日本の医療の質』を真剣に向上させたいと考えている。患者さん一人一人に最適な治療を提供する支援をデータとIT技術で実現したいんだ。厚生労働省や国は、どう考えているんだろう?」

 松坂は「うん、うん」
とうなづきながら、言葉を続けた。
 「もちろん国も厚生労働省も、患者さんに最適な医療を提供したいと考えている。同時に、無駄なコストも削減したい。そのためにデータを活用することも賛成だ。国も厚生労働省も、日本の医療の質を高めたいと思っているよ。

 実は、医薬品の評価には医療技術評価というのもあって、医療技術の効果や影響について医学的・経済的・社会的な面から総合的に評価している。
 だが、これだけでは患者さんにとって本当に有益な薬物治療かどうかを評価しきれないと、僕は考えている。もっと詳しくさまざまな治療を評価する必要を感じている。
 今日の鈴木との話で、実はそのためのヒントを得たよ。感謝してる」

 松坂の言葉を聞いて、鈴木はほっとした。

 その後、松坂も鈴木も、酒の肴をつまみながら、昔話に花を咲かせた。そして、2杯目のハイボールと生ビールのジョッキを空にして、居酒屋を後にした。
 地下鉄の入り口に差し掛かったところで、松坂が
「鈴木、今日は勉強になった。ありがとう」
と片手を挙げた。
 鈴木も
「こちらこそ、急に呼び出してすまなかったな。また、飲みに行こう」
と応えた。
 二人は別れて、それぞれの家路に着いた。

 吉田の机の電話に厚生労働省から電話が入るのは、その後のことだった。

(第十四章に続く)


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