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黄エビネの咲く庭で(第十四章 松坂と吉田のファーストコンタクト)

第十四章 松坂と吉田のファーストコンタクト

 ある日、吉田が会議を終えて、自分の机に戻ってきた時だった。
 吉田の机の電話が鳴った。内線からの電話だった。
「はい、もしもし」
「社長、厚生労働省の松坂さんという方からお電話です」
「えっ、厚生労働省?そうか、つないでくれ」
 電話の向こうの、吉田の会社の女性社員が、松坂を吉田に取り次いだ。

「はい、お電話代わりました。吉田でございます」
「吉田社長ですね、初めまして。私、厚生労働省の松坂と申します。突然のお電話で大変申し訳ございません」
 電話の向こうの松坂の声は、とても落ち着いていて、丁寧な口調だった。

 吉田もつい、いつも以上に丁寧に応対した。
「いえ、とんでもないことです。わざわざお電話をくださって、ありがとうございます」
 「こちらこそ、お話の機会をいただけ、感謝いたします。早速ですが、吉田社長にご相談があり、お電話いたしました」
「相談ですか、どういったことでしょうか?」
「はい、現在我々厚生労働省では、弊省をはじめとした医療のDXに関連する官公庁横断的な勉強会を立ち上げようとしています。そこに、吉田社長にアドバイザーのお一人としてご参加いただけないか、という相談です」

 松坂からの申し出に、吉田は少々驚いた。
「そうでしたか、大変光栄です。しかし、なぜ私なのですか?」

 吉田が少し訝しげに尋ねた。松坂は、言葉を続けた。
「吉田社長は、日本のIT業界の中でも長年にわたる功績が非常に大きく、日本国内においてITやAIなどの技術に精通しておられ、業界を牽引している第一人者であらせられると私どもは認識しております」
「過分なご評価をいただけて、こちらこそ恐れ入ります」
「今、厚生労働省では、他の省庁と連携しながら、日本の医療のDX化をより加速させたいと考えております」
「そうでしたか、素晴らしいですね」
「その勉強会での議論では、日本の医療現場の課題抽出と深掘り、具体的な課題解決策の検討、そしてその解決策の社会実装までを一貫して取り扱う予定です。
 このような議論をするにあたり、DX化に欠かせないITやAIについての技術的な知識やこれまでのビジネスのご経験に基づき、国が医療のDX化を推進するための要諦などを、専門家の立場から適切なご助言をいただける方々が必須です。
 それを、吉田社長にお願いできませんでしょうか?」

 松坂の説明を聞いた吉田は、これまでの社内の議論を実現する大チャンスの到来に興奮した。
 吉田は、その自分の興奮をなんとか隠しながら、松坂からの質問に答えた。
「松坂さん、わかりました。微力ではありますが、私にできることは全力で取り組みましょう」
「吉田社長、ありがとうございます!吉田社長なら、もしかしたらご協力くださるのではないかと期待しておりました」
 電話の向こうの松坂の声も弾んだ。

 松坂は
「それでは吉田社長、詳細は今後メールのやり取りでお伝えいたします。私のメールアドレスをお伝えいたします。XXX@XXXです」
「私のメールアドレスはYYY@YYYです。ご連絡をお待ちいたします。では失礼いたします」
 吉田は丁寧に電話を切った。
 吉田の胸に興奮の大波が押し寄せた。
 これまで吉田や鈴木、蒼生らとともに日本の医療のビッグデータを調査・分析してきたことが報われ、吉田の会社のインフィニティヴァリューのIT技術が国のお墨付きをいただき、国との大きなビジネスが始まることを予感させた。

動き出す競合

 松坂が吉田にコンタクトした後、松坂は厚生労働副大臣の小川に、吉田が医療DX勉強会に参加してくれることを報告した。
 その話を、小川はデジタル庁の濱田長官や財務大臣の楠木らにも共有した。
 その席には、デジタル庁の井出も参加していた。

 井出は顔色ひとつ変えずに、しかし内心は
「(ちっ、インフィニティヴァリューの吉田が出てくるのか・・・。ウチの会社(エスタブリッシュシステムズ)でこの医療DXを案件化して取りたかったが、簡単には進まなそうだな・・・)」
と思っていた。
 井出の出向元のIT企業であるエスタブリッシュシステムズも日本では老舗の大手企業だが、吉田のインフィニティヴァリューの実績や評判、技術力は非常に高いため、井出のエスタブリッシュシステムズであっても簡単に受注することは困難だとすぐに想像がついた。

 その日の夜、井出はデジタル庁での業務が終わった後、エスタブリッシュシステムズに向かった。

動き出す井出とエスタブリッシュシステムズ


 井出の本来の勤務先であるエスタブリッシュシステムズに、日本政府や官公庁が医療DXに本気で取り組むことや、そのための勉強会が開催されることを共有するためだった。そして、その上で案件化された場合はぜひ受注するように働きかけるつもりだった。

 井出がエスタブリッシュシステムズのオフィスに入ると、井出の上司である部長が待っていた。
「福永部長、お疲れ様です」
「井出、ご苦労さん。経営陣がそろそろ会議室に全員揃う頃だ。会議室に行こう」
「はい」
 井出は、福永の斜め後ろに一歩下がって会議室まで歩いた。

 歩きながら福永は
「井出、今、経営陣は今後の中期経営計画の策定中だ。おそらく今日の井出の話次第では、うちの中期経営計画にも影響が出るだろうな」
「はい、部長。詳細は追って福永部長と経営陣に説明いたしますが、現在の日本の医療は、我々IT業界には非常に追い風となっています。邪魔者が立ちはだかりそうではありますが」
「そうか、井出の話を聞くのが楽しみだな。邪魔者が気になるところだが・・・」
 福永がそう答えたところで、会議室にたどり着いた。
 福永が会議室の扉をノックし、開けた。会議室には、エスタブリッシュシステムズの経営陣7人もちょうど入室してきたところだった。

 福永は挨拶も早々に、井出に現在のデジタル庁の取り組みを説明させた。

 井出は一通り、デジタル庁、厚生労働省などの省庁や、日本政府が考えている

  • 今後日本の医療が、費用対効果をさらに重視した方針になること

  • 今後の医療へのITの活用が促進されること

  • 医療DX勉強会が、将来的に内閣の諮問機関になる可能性があること

  • そこには巨額の予算が付きそうであること

  • 医療DX勉強会での検討事項が案件化すれば、どのIT企業も一気に案件獲得に動く可能性が高いこと

  • その中には、井出たちの競合でもある吉田の会社インフィニティヴァリューも含まれる見通しであること

  • インフィニティヴァリューは強力なライバルではあるが、井出たちにとってもこの案件は見逃せないので、井出は引き続き情報収集と社内への共有を図ること
    を申し添えた。

 井出の話を一通り聞いた経営陣のうち、営業本部長は、
「井出、吉田のインフィニティヴァリューを抑え込めるか?」
と尋ねた。営業本部長はいつも目が鋭いが、今日の営業本部長は、いつも以上に目つきが鋭かった。目が合えば飛びかかられ、殴りかかられそうな危険すら感じた。
 井出は背中と脇に冷や汗が流れ出るのを感じながら
「なんとかします」
とだけ答えた。井出の目線は経営陣の手元をじっと見つめるだけだった。

焦燥の井出

 井出は、経営陣の誰とも目を合わせることなく、しかし経営陣から目線を外さないことで、なんとか会議室の床に精一杯踏ん張ってみせた。目線を合わせれば経営陣の目線で射殺されそうだった。下手にうつむいたら、経営陣から
『井出は自信がない、このミッションにはそぐわない』
と激怒され、会議室を叩き出されそうだった。
 
 エスタブリッシュシステムズの経営陣の真骨頂は、極めて冷徹な恐怖政治であり、徹底した成果至上主義であった。成果をあげられなかった社員は皆、エスタブリッシュシステムズから去らなければならなかった。
 その状況を痛烈に身に沁みて理解している井出だからこそ、経営陣から
『井出はできないやつ』
と思われたくなかった。

 しかし、一方で、医療DX勉強会がまだ始まってもおらず、どのような議論になっていくのかすら、井出も予想しきれていなかった。吉田たちをうまく抑え込める自信もなかった。
 しかし、「できる」としか言わなければならない緊張感が会議室の中に充満しており、井出は
「なんとかします」
ということが精一杯だった。

 エスタブリッシュシステムズの社長は、メガネのレンズを拭きながら
「井出、この医療DX勉強会で検討された結果と提言を案件化し、うち単独で獲得しろ。いいな」と指示した。
 井出は
「かしこまりました」
と返事をした。そしてくるりと回れ右をし、すぐさま経営陣たちがいる会議室を後にした。エスタブリッシュシステムズでは、指示を受けたら直ちに着手することが当然だった。
 
 井出は、そのまますぐにデジタル庁に戻った。
 時計はまだ18時半を過ぎたばかりだ。デジタル庁には、まだ濱田長官がいるはずだ。
 医療DX勉強会の第1回のアジェンダを作成し、濱田長官に見せてみよう。そして、医療DX勉強会の主導権をデジタル庁と井出が握ろうではないか。
 吉田のインフィニティヴァリューが出てくるからには、絶対に主導権は渡さない。
 井出は、いつもと何ら表情を変えることなく、しかし、心の中ではインフィニティバリューへの憎悪の炎が轟々と燃え上がっていた。

(第十五章に続く)

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