【小説】ガブリエル ~キメラ・最終譚~

 キメラⅠ・Ⅱ (1992-1994)
 CMD (1994-1996)

 ――――友と父に。

 アラームの響かせる鐘の音で目覚めた。
 博士はいない。先に目覚めて、もう出かけてしまったらしい。余白になった寝床の上は冷たくなっていたから、息子の目覚めを待たず家を出たんだろう。
 今日は特別な日だ。
 それはフリューゲルにとっても、彼の育ての親の記憶を継承した人工生命体である博士にとっても、きっと同じだろう。
 介助役としての務めは果たすとばかり、フリューゲルの手の届く位置にサイドテーブルが寄せてあり、そこにお気に入りの杖とモバイル、それにクリスタルガラスにはいったミネラルウォーターと鎮痛剤が添えてある。
 ――――ご苦労さま。
 フリューゲルは誰に言うでもなく呟いて、ベッドの際に立てかけた義足を手に取り、いつもの手際でサポーターを調整しながら軽量化したそれを装着する。
 神経とケーブルが接続される、ちりっ、ちりっとしたいつもの感覚をしばし待った。
 ああ――――そういえば。
 傍らに出したままの介助犬用のハーネスを脇に寄せる。
 先々月、大往生した相棒の気配が、まだそこに残っている。
 新しい介助犬を迎える為の申請は、博士が出すのを渋っていた。
 前の犬のクローンでいいんじゃないかと言われ、その提案への回答はフリューゲルのほうが渋っている。
 まあ、今のとこ不便はないし。
 介助犬代わりに添い寝してくる博士の過保護がうざいけど。
 時計は午前八時をすぎたところ。
 ダイニングには、朝食用にゆうべ自然解凍しておいたコーンブレットがある。
 ケトルに水を汲んで、背筋を伸ばした。
 アッシュは、もう起きているだろうか。
 ずいぶん連絡を取っていなかったけれど、ゆうべ博士が連絡したときには、昔と変わりなく、物静かに「わかりました」と通話を切ったらしい。
「元気そうだった?」
 そう尋ねたら、博士は首を倒した。
「まあ……声はね。たまに途切れたけど」
 通話中、ずっと画像はオフになっていたようだ。
 旧市街地は、上空の磁気嵐の影響で断続的な電波障害があるから、それだろうと博士は言った。
 まあ、いい。
 おととい、ラボに宅配便を届けに来た顔見知りの配達員が博士と世間話をして、アッシュの唄うミサの評判がうなぎ登りで、今やチケットも取れないと訴えるのを聞いたから。
 ミサで? チケット?
 つっこみたいことは色々あるけれど、アッシュが唄っているなら。
 ――――だいたいオッケーと。
 たまには顔を見せに来いよ、なんて言えた義理ではない。
 ふたりが別々に生活基盤を持つようになってから十数年がすぎる。
 十代の頃に家出して、ふたりで暮らした旧市街地のアパルトマンにアッシュは残り、フリューゲルは実家とラボのある中央区に戻った。
 そのまま、今に至る。
 この十年、街の治安と行政はずいぶん変化した。
 住民投票で地名も変わり、旧市街は整備され、放置されていた瓦礫の多くは、埋め立て地へと移された。それによって隠れ住んでいた難民の多くも職を求めて景気の良い東海岸へ移動し、市長選には泡沫候補と見做されていた穏健派が圧勝。
 さらには気象システムのアップデートによって、名物の雨すらまばらに、今後も続くであろう異常気象に対応すべく、インフラ調整が進められている。
 でも変わらないこともきっと何かある。

 たとえば――――。

 おっと。
 アッシュの少し厭味な声が聞こえて来そうで、フリューゲルは目を顰め、気を取り直してカラーコンタクトを入れ替える。

 赤――――青?
 やっぱり今日は、黒か。

 俺と博士は、おまえが考えてるような不埒な関係じゃないよ。
 いくら、俺がロボット好きだと言っても、義理の父親を模倣したアンドロイドと懇ろになるほど、人生、放り投げちゃいないさ。
 フリューゲルは思う。
 それに博士は博士、器が替わってもあのひとの魂は、まだこの世のどこかに留まってるに違いない。
 介助犬だって、きっと同じだろう。


 ケトルの湯はきっかり3分で湧いた。
 いつも通りに。
 コーヒー豆をミルに入れ、コーンブレッドに添えるモーニングプレートを選ぶ。
 マイクロウェーブのじりじりするノイズ、スチームに混じったコーヒーの芳香と、チキンや温野菜のぬくもり。
 それもいつも通りに。
 テーブルについて、フォークの先で豆をはねながら、レモンペッパーチキンをつついていたら通話がはいった。
 ――――アッシュだ。
「……おはよ」
 今朝は画面がついているが。
 長い髪はぼさぼさ、寝起きさながらのむくんだ瞼に不機嫌そうな口元。
 フリューゲルは苦笑する。
「なんだ。早起きじゃん」
「子供と嫁に……叩き起こされた」
「そりゃよかったな。メシは」
「……ん……ああ……」
 昨夜のスムースな会話とやらはどこ行った?
 そういや、俺相手だと取り繕った外面の一切合切が吹っ飛ぶヤツだったと、フリューゲルは思い直す。
 まあ、至って普通だね。
「……て、いうか」
 アッシュはしかめっ面のまま畳みかける。
「そっちはまだメシ食ってんの? シャワーは済んだ? セレモニーは十時からじゃなかった?」
「メシはもう食い終わる。義足つけたから朝のシャワーはなし。ゆうべ風呂にはいった――――中央大聖堂カテドラルは、ここからたったの1ブロック先だし、まだ余裕で間に合う」
 そう言ったら、ああと妙に納得した顔で、鬱陶しい前髪をかき上げる。
 ――――また伸びたなあ。
 ストレートの銀髪。薄い色素。
 それだけは双子の自分と一緒だ。
 ただし二卵性でも、一卵性でもない。
 その辺りの説明は、もう四半世紀前の話になるので端折ろう。
 最近は、特殊細胞クローンヒューマンと呼ばれ、人権も市民権も法によって守られている。
 生前贈与で、記憶と個人情報をアンドロイドに乗せ換えるのが認められたあと――――。
 さらなる人口激減時代を迎えた社会は、世界各国で体細胞をベースにしたクローンを生殖により生まれたヒトと同じ、人類と認める法を制定し、パンドラの箱はついに解禁された。
 だが、技術がどれほど進化しても、フリューゲル達ほど長寿の個体は極めて少ない。
 不老不死に手をかけた人類ではあったが、生殖細胞を介さない若返りのハードルを超えることは、いまだ叶わないのだ。
 ――――ガブリエル以外は。
「……お子さんは元気?」
 コーンブレッドを飲み下しながら尋ねると、アッシュはまた眉間に皺を寄せた。
「今日は連れて行かないよ、ふたりとも」
 ふたり? 増えてる。
「また、産んだの?」
「またって言うな。産んだのは俺じゃない、妻だ」
 まあ、そうでしょう。そうでしょう。
 もう数年ほど会っていないが、アッシュには勿体ないほど、よく出来た、しっかりものの奥さんだとフリューゲルは思う。
「で、そっちは?」
「俺は相変わらず」
 アッシュの視線が、ふと遠くなる。フリューゲルではなく、画面のどこかを探るように、大きな瞳が動いている。
「……じゃなくて……」
 その途端、声がねちっこくなった。
「部屋には誰もいないよ。恋愛もしてない。ラボがバカ忙しくて、他人に気が回らないからさ」
「……ふうん」
 中年兄弟の会話というより、面倒臭い元カノと話してる気分。
「アッシュ……変わらんねえ」
「うるさい。近況も報せないおまえが悪い」
「そこは、おたがいさんでしょ」
 自分はさっさと妻帯して、子供もふたりこさえた癖に。
 フリューゲルは笑った。モーニングプレートを平らげ、コーヒーを飲み干す。

 アッシュがウェットなのは昔から。
 自分がドライなのも昔から。

 これは、たぶん第一世代シニアから積み重なる記憶の宿痾しゅくあのようなもので、粛々と遺伝子に受け継がれていくものじゃないかとフリューゲルは思っている。
 つまり。
 大切な相手を残して、先に死んでしまった負い目とか。
 その相手の子供を宿したクローン体とか。
 アッシュと分化した際の、痛みの記憶だとか。
 フリューゲルには感じること、考えることがきっちり三人分ある。
 脳の許す容量いっぱいに葛藤したおかげで、今はもうすっかり、こうした先代の記憶断片も整理されているのだが、逆にアッシュには受け継ぐべき記憶の多くが、欠けていた。
 同じ細胞が分化した、便宜上の双子――――融合双胎であっても、こうした様々な事故が起こるのがクローンだ。
 フリューゲルが生まれ持って知っている多くのことを、先代の残した記憶を、アッシュは知らない。
 知らなかった。
 自分達の親になったふたりのことも、自分がその形質の多くを受け継いだひとのことも、その殆どがブラックボックスのまま、体だけが解凍されてしまった。
 継代されるべき情報の曖昧さは、クローンがクローンたるオリジナルとの自己同一性を遠ざける。
 欠けたもの、足りない何かを探し求めて、もがいて足掻いても。
 アッシュは、別の人格をもった別人になるしかない。
 ガブリエルと――――。


 まだ、不機嫌そうな顔してる。

 フリューゲルはモニターの向こうに透けるアッシュに笑いかけた。
「……迎えに行こうか? 今ならまだ往復してもセレモニーに間に合うでしょ」
 銀の睫毛が瞬く。ちょっとだけ笑ったような気がする。
「いいの」
「いいよ」
 皿を食洗機に手渡して、フリューゲルはジャケットを片手に立ち上がった。
「じゃ、今から行く。待ってて」


 車庫にはロボット運転のSUB車と、半制御の自動運転セダン車しかなかった。
 博士がクラシック型のスポーツ車に乗って行ってしまったらしい。
 片足の“不自由な”義息を、彼なりに思いやってのことだと思うが、
「……しゃあねえ」
 一声唸って、フリューゲルは車の識別認証キーを解く。

 ガブリエルは、ヴァンがテロに巻き込まれて死んだ後、自動運転の車に乗るのをやめた。

 フリューゲルは自動運転車のフロント扉に手を触れる度、二人の巻き込まれたテロの悽惨な、受け継いだ記憶の痛みを想起する。
 リピートする度にフラッシュバックは遠ざかってはいるものの。
 ちちち――――。
 まだ眉間を軽く揉む程度には、動揺する。
 ――――さっきのアッシュの「いいの」には、これも含まれてんだよな……似非サディストめが。
 舌打ちしながら扉を開けた。
 自動運転のナビゲートシステムに行き先を告げて、シートに滑り込み、フリューゲルは頭の上のサングラスに手を掛けたままミラーに映った自分の姿に目を止める。
 黒。
 スーツも髪も、カラコンも、義足に履かせた靴も黒。
 ――――似合ってねー。
 だが致し方なし。
 喪服姿のままモバイルスタンドを手元に引き寄せて、フロントウィンドウの採光を少し絞った。
 スタートアンドゴー。
 車が走り出す。
 車内を反射したフロンドガラスのむこうに、さっきのアッシュのふくれっ面を思い浮かべる。

 ――――ああ、あれ。

 リビングのソファの向こうに、寝乱れたままの寝室が見えたんだ。
 相変わらず過ぎるだろ。
 フリューゲルは苦笑する。
 分離不安を言い訳にできるのは、子供のうちだけだぞ、とも。
 車は自動運転のまま、市街地を抜け高速道路に乗った。





 高速道路の高架から眺めた旧市街地は、今日もぼんやりと雨が降り、ところどころで濃い靄が出ている。
 だが、インフラが整い土壌汚染などの洗浄も進んだことで、フリューゲルが暮らしていた頃には想像もできないほど、その景色は穏やかでクリーンだ。
 ほどよくかかった靄が、人工ドームに覆われた中央区とは数世代もかけ離れた町並みを覆い隠す。
 長い人類衰退の時代を知らない若い世代が見れば、一度はうち捨てられた廃墟ではなく、歴史情緒ある風景だと思うかも知れない。
 ――――だったら幸せだ。
 靄の中からは、にぶい金色に輝くゴシック建築の尖塔が覗いていた。
 いつのまにか野鳥も渡ってきている。
 その昔、月の裏側にならぶ高層の人工島へ繋がる小型宇宙船の発着場があったのは、そのはるか頭上だ。
 地上の文化遺産の多くは、その莫大な維持費を賄えなくなった文明にうち捨てられたが、ほんのわずか回復の兆しが見え始めた昨今、保護と復興が始まった。
 博士が維持に努め、後継者の育成に精を出す技術や科学なども同様である。
 うち捨てられた文明には、野に放たれた時代に覚えた自然との共存という道も、またある。
 クローンヒューマンが一時的に支えている全世界の出生率も、いずれ自然淘汰され、強い個体が残っていく。
 そうしてまた始まるのだ。
 人類は衰退しながらも前進していた。

 アッシュの子供たちは大きく育ち、より強い子孫、人類の後継者を残してくれるだろうか。



 約束の時間を少しすぎたので、アッシュは家の前庭でフリューゲルを待っていた。
 大きな体躯の嫁さんが、アッシュの世話をかいがいしくやいている。
 足元にじゃれついてる子供たちは、みなどことなくアッシュに似ていたが、犬ころのように元気でいっときもじっとしていない。
 離れたところから、小さくクラクションを鳴らしたら、全員がほぼ同時にフリューゲルの車を見た。
 窓越しに片手をあげる。
 アッシュは、腰までありそうな銀色の髪をゆるくまとめて、喪服の上には、セレモニーにぴったりな玉虫色に輝く白いローブを羽織っている。むくんだ寝起き顔は解消し、血色もよかった。
 ――――実に神々しい。
 フリューゲルはアッシュに微笑みかけた。
「ごめん、ちょっと道が混んでた」
「いいよ、急ごう」
 アッシュの妻と軽く会釈する。三人分のハグが忙しい。
「みんな元気にしてた? 最高の朝だね。連れて行けなくてごめんよ。主催の行政がうるさいんだーーーーアッシュはいい衣装だね。君の手作り?」
「ええ、美しいわ」
「うん。美しいね」
 アッシュは肩を竦める。
 嫁さんには感謝しろよ。

「気を付けて! ふたりして飲みすぎないように。アッシュ、今日も晩ご飯は6時半よ。遅くなるなら連絡してね!」

 アッシュの嫁、マリアが声を張り上げて、車のなかのふたりに手を振る。
 よく見ると、腹が大きい。
「彼女――――三人目が?」
 アッシュは、また肩を竦めた。
「いってらっしゃーい」
「いっちゃっちゃーい」
 ゴム毬のような子供たちは、ぴょんぴょんしながら父親を見送る。
 ――――父親……か。
 フリューゲルは、シートに体を滑り込ませたアッシュのアンティークドールのような横顔を一瞥する。
「……何?」
「いいや」
 こいつが子供たちの母親だと言われても、俺は納得しちまうな。と、一瞬セクハラまがいのことを考えるが、決して口にはしない。
 アッシュがフリューゲルの恋人に手をあげそうになって赤ん坊のように泣き喚いたのが、つい昨日のことのようだが、そんな風に考えるのは、きっと自分も歳を取ったのだとフリューゲルは思う。
 過去のことは、もう忘れておくのがいい。
 二十年も経てば、フリューゲルはヴァンともクローンとも別人だし、アッシュはガブリエルじゃない。
 博士が言うとおり。
 時が解決することは、人間が思ってる以上にたくさんあるのだ。


 高速道路を中央区、新市街へ急ぐ。
 その道すがらアッシュが、今日のセレモニーは朝のトップニュースとして配信されていたと言っていた。
 その言葉通り。
 中央大聖堂カテドラルの道は、交通整理のロボットが出動する騒ぎとなっている。
 交差点を越えたあたりでIDの提示を求められ、ふたりの身元が割れると、混雑した道が仮想レーンを開いた。
「こちらから、VIP専用駐車場へお進みください。駐車スペースはF6です。シートベルトのご確認を」
 ロボポリスの発言が音声記録され、乗り手のふたりがまだ何も言わないうちに車は仮想レーンへ乗り換え、動き出した。
 その一瞬、ふわりと重力が無効化される。
 うえ。
 ぐえ。
 中で、ふたりが顔を顰める。
「……何回経験しても、これ慣れないわ。いったいどういう仕組みなの?」
「俺に聞かれても。都市計画は専門外だし」
「……じゃなくてさ」
 そんな会話も、重力が戻り、車が高架レーンに乗り上げたところで収まった。
 窓から眼下を見下ろしていたアッシュが、小さく歓声を上げる。
「おお、ひとがごみのようだ」
「はは、なにそれ。おかしい」
 セレモニーの執り行われる大聖堂から、市街地のメインストリートまでの数キロ四方に全市民が集まったかと思うほど、ひと、車、ひとの集団の蠢くのが見えた。
 人類存亡の危機を救うクローン献体として眠る大天使を知る人々は、思っていたよりずっと多かったらしい。
「どう見てもうちの住民だけじゃない」
「すっかり有名人だな、ガブリエル」
「映画見てないの、フリュ」
「……見てねーし」
「ラストシーンは泣けたよ」
「おまえが泣くな」
 アッシュが笑った。
 今日最初の笑いどころがそこなのは、ちょっと複雑な気持ちだ。
 だが、まあいい――――。
 不老不死が、今よりずっとロマン溢るる存在であった前世紀に実験室で生み出された、老いず、死ねない体をもつ男、ガブリエル。
 彼はその波瀾万丈の人生の中で、ただひとり相方と決めた友人の死と罪悪感を背負ったまま、死人のようにただ生き延びて、最後は自ら実験室の冷凍装置に横たわったという。
 映画の中では、どう描かれているにせよ。真実は、ガブリエル自身と、彼を見守るクローンに受け渡した彼の幼なじみ、ヴァンの残した記憶として、フリューゲルの中にある。
 ただ最期の時――――。
 彼は装置の手前で振り返り、側に控えている博士、コバルト・タリアンに微笑んだ。

「――――じゃ、また」

 そう。
 また会おうとガブリエルは言ったのだ。
 四半世紀の約束は必ず守ると博士が言うと、小さく頷き、目を閉じたのだ。
 そう義父は語った。
 彼はそういうことで嘘をついたり、話を盛ったりする男ではない。
 その証拠に、自身がアンドロイドに記憶の全てを明け渡して代替わりする際には、無言で去った。
「……お父さん!」
 フリューゲルがそう呼ぶ度に、自分はおまえたちの父親ではないと返した博士は、銀色の目を閉じる寸前に、微かな笑みを口元に浮かべた。
「お父さん、待って!」
 また会おうとも、さようならとも、元気でやれよとも言わなかった。
 そのかわり、有機処理剤のあぶくとなって消えた翌日、まるで新しい服に着替えたようなこざっぱりした顔で、フリューゲルの前に姿を現したのだ。
「今度こそ、わたしを父と呼ばないでくれよ」と、博士は言った。
「呼ばねーよ」と、フリューゲルは笑った。
 笑った瞬間、涙がこぼれた。
 慌てて頬を拭ったが、あとからあとからそれは湧いてきて、フリューゲルの中の感情を揺り動かし、こらえた嗚咽を搾り取った。
 このひとは父ではない。
 父はもういない。
 人間になりそこなった失敗作のクローンを分化できるまで育て、有機パーツで補い、ふたり別々の人格として生きていけるように見守ってくれたひとではない。
 親友のために、彼の棺をつくり、彼自身の身体を人類の未来に還元するというふれこみで、彼の国際手配の枷を解いたひとではない。
 彼はもう――――いない。
 ヴァンのクローンを初めて見たときの、ガブリエルの寂しさが分かった気がした。


 ひとは誰しも、いずれ魂のあるべき場所へ還る。

 それが許されなくなった時代。
 死の意味は重く、深い。
 受け渡すべき遺伝情報は、種のみならず、個人の歩んできた人生そのものも含む。
 それは死ではないと博士は言う。
 人工生命体を器とする自分は、すでに生物、人間ではないとも言う。
 ――――だったら生物の定義は?
 三世代の記憶を保つ自分の生と死は、何を以て定義されるのかとフリューゲルは思う。
 父もガブリエルも。
 生命としての終焉を決めるのは、神か、それとも運命の砂時計か。
 できることなら、時であって欲しいとフリューゲルは思った。
 宗教や神を否定するわけではない。
 ただ、この人生も、記憶も、神が敷いたレールだというなら、彼に言いたいことが多すぎる。
 言い出すとキリがない。
 できるなら、自分自身も父のように黙って逝きたい。
 ガブリエルのように笑って眠りたい。

 ――――でないと、アッシュが泣く。

 アッシュを泣かせるのは、本意ではないと彼は思った。
 今日のこのときも。
 明日からの時間も。
 フリューゲルとアッシュを乗せた自動運転車は、中央大聖堂の中ほどにあるVIP専用駐車場へ吸い込まれていった。





 タリアン財閥を解体しその多くを社に譲渡したあと、義父が残した三つのラボのうちふたつは、今、フリューゲルと研究チームのものになっている。
 残りひとつは、義父とあとを継いだ新しい博士がガブリエルのためだけに管理運営していた。
 その莫大な管理費の多くは、ガブリエル自身がタリアン博士と契約した四半世紀間の身体組織サンプル提供によって賄われた。
 それゆえに博士とそのラボは、今もなお、多くの人権派思想家から目の敵にされている。
 大聖堂の外周で、セレモニーの音漏れを聞こうと集まった人々と、そうした団体の未許可デモが小競り合いを起こし始めた。
 顔面蒼白のセキュリティー担当者が駆け込んで、セレモニーのために控え室に詰める関係者に警告する。
 主催者を始め、タリアン・ラボラトリーの関係者は建物から出ないよう。カーテンを閉め、決して窓辺とドアの前には立たないように。
「セレモニー開始まで、ご協力をお願いします」
 博士は言った。
「われわれは会を中止にはしません。一般客の献花を見送っても、決行することを宣言します。それが見送られるガブリエルとわたしの誓約なのですから」
 まばらな拍手があがり、喪服姿で集う人々はやれやれと言った表情で、広くもない室内のあちらこちら、小さな集団となって散っていく。
 不安そうな顔を伏せたアッシュに、博士は「おまえたちは、ここにいなさい」と声を掛け、警備担当と慌ただしく控えの間を出て行った。
 すでに開始時刻を一時間が過ぎ、皆に、あたたかいコーヒーとお茶、クッキーにサンドイッチなどの軽食が振る舞われ始める。
「……フリュ」
 給仕のワゴンに背を向けたフリューゲルを、そっとアッシュが呼び止める。
 どこに行くのかと聞かれ、フリューゲルは小さく肩を竦めて誤魔化す。
 群がる人の背を抜けて、そっと裏の出入口から封鎖されている通路へ向かった。
 当然のように、アッシュも着いてくる。
「下に行くの?」
「……しっ」
 警備員の死角を縫って、大聖堂のホールへ抜ける非常階段を降りる。
 ちょうど曇り空が晴れ、天窓から昼の光が差し込んできた。
「久しぶりにガブリエルに挨拶しようと思ってさ」
「そういや、ずいぶん長いこと会ってなかったね」
 ふたりは足音と声を忍ばせる。
 祭壇の上は一面の百合畑で、その中央に屹立させた保存ケースに安置されたガブリエルの姿がある。
 この日のために冷凍措置はすでに解かれており、その姿は精巧なアンドロイドのように見える。
「……眠ってるみたいだ」
 下までおりると、辺り一面の白百合の香りが立ちこめ、ふたりは噎せるようにして祭壇へ進んだ。
「思ってたより大きいね」
 アッシュが言う。フリューゲルが返す。
「お父さんと変わらないぐらい、背の高いひとだから」
 ケースに風が通るのだろう。
 艶やかな黒髪が風にそよぎ、ふわふわと毛先を遊ばせている。
 象牙色の肌は解凍されたばかりとは思えないほど潤って、今にも目を開けて、ふたりに話しかけてきそうだ。
 脳の活動は、彼がコバルト・タリアン博士と約束した直後から停止しているというのに。
「……彼はどうして、こうなろうとしたんだろう。お父さんを信用してたから?」
 同じ顔をしたアッシュが、彼より華奢な手で銀色の前髪をかき分けながらそう呟いた。
 それもあるとは思うけど。そう前置きしてフリューゲルが答える。
「追われて逃げるのに疲れたからだと思う」
「覚えてるの? 誰かにそう言ってた?」
 頷こうとして、フリューゲルはためらう。
 たぶんそうだ。だが、この記憶はガブリエルが逃亡生活を始める前に死んだヴァンや、そのあとの短い時間を過ごしたクローンのリヒャルトのものではない。
 フリューゲル自身が覚えている。
 記憶の中、水に漂う肉の尾鰭と、ガラスの向こうに彼の大きな黒い瞳が見える。
 彼は何度も、まだヒトになる前の自分達に会いに来ていた。
 意志と人格があるのだと、タリアン博士に聞かされたとき、彼の静かな瞳が喜びの色を浮かべたのをフリューゲルは知っている。
「ベイビー達……調子はどう?」
 水槽を優しく撫でながら聞いたことのないメロディを口ずさむ。

 おかえり坊や……たでしょう。
 あたたかい……でも。
 そこにかけて話をしよう――――。

 フリューゲルが思い出したのと同じメロディをアッシュが歌い始める。
 ゆらゆらと温かい羊水に漂いながら、まだひとつきりの目を何度も瞬かせ、ふたりはこの美しいひとを見つめていた。
 アナタハダレ?
 アナタハダレ?
 たまに訪れては優しい声で語りかけるこのひとに、フリューゲルは何度も水の中から問いかけた。
「おまえたちはふたりでひとつ……美しい、美しい子供たち」
 ――――俺の子供たち。
 アナタハダレ?
 アナタハダレ?
 ふいに光の帯が天窓を貫き、百合の花弁に濃い死の影を落とす。
 頭の中で誰かが笑った。

 ガブリエル――――ガブリエル!

 フリューゲルの脳裏に、酔っ払って笑い転げるガブリエルの姿とその肩を叩くヴァンの姿が浮かぶ。
 まだ若いふたりの、よくある風景。
 他愛のないことで、大口開けてふたりは笑っていた。
 酔っていれば、なんでも楽しい。
 つまみにしていたピクルスのピックが折れて飛んだとか。
 どちらかの呂律が回っていないとか。
 仲良くしていた飲み屋の店員に、ハバネロ入りのカクテルを奢ったとか。
 ふたりはじゃれあい、よく笑った。
 幼い頃には、入っていた施設で同じようなことをしてやっぱり笑っていた。
 誰かが靴を互い違い履いているのに、丸一日気づかなかったとか。
 どっちが先に可愛い女の子と仲良くなるか競っていたら、別の誰かに先を越されたとか。
 死ぬほど辛い飴と死ぬほど甘い辛子のどちらを選ぶかとか。
「くだらねー」
 ヴァンがそう笑えば、やっぱり同じようにガブリエルも笑う。
「くだらねーからいいんじゃないか」
 そして、またヴァンが笑う。
「でもやっぱりくだらねー」
 ふたりは声を合わせ、いつまでも笑い転げた。

 献体は四半世紀を有効とする。

 こんどは別の声がした。
「四半世紀――――?」
 ガブリエルが視線を擡げる。
 彼の目の前にはフリューゲル達の育ての親、コバルト・タリアン博士がいた。
 いつもの気難しい顔をさらに硬くしてガブリエルに対峙している。
「……わかった」
 ラボのほの白い光を受けて、彼の口元の少しゆるむのが、ガラスに反射している。
 この頃のガブリエルは、それ以上笑うことはなくなっていた。
 疲れ切った、少しすさんだ目をしていたが、それでも優しく誰かを思いやる気持ちは、忘れていないように思えた。
「いいよ。君が俺の体細胞の最後の一片まで責任を持って解体してくれるなら……それまでの二十五年間は、君に俺の全部を預ける」
 落ち着いた声でそう言うと、ほっとしたように椅子の背に体を預け、それからちょっと顔を歪める。
 彼は泣いたのかとフリューゲルは思った。
 でも泣いたのは彼でなくコバルトのほうだった。
「感謝する」
 そう言うと、コバルトは銀色の眼から落涙し、静かに顔を伏せる。

 ――――ありがとう。

 そう言われて、ガブリエルは困ったように少し笑った。
 そういうヤツなんだよと、フリューゲルの頭の中でヴァンは溜め息をついた。
 だから、ひとりにしておけない。
 いつ誰に掴まって、自分の体が悪用されるかわからないから。
 いっそのこと死んでしまいたいけれど、それも叶わないから。
「……ヴァン、俺さ、思うんだけど」
 ガブリエルの声が、遠く、やけにくぐもって聞こえる。
 この記憶は――――。

 ――――もしも、どちらかが先に死んで、どちらかがひとりになったら。

 軋むような発光と、一瞬で消えたすべての音。
 ……ヴァン……俺……!
 ……どちらかが。
 ひとりになったら。
 その言葉がガブリエルの頭の中で反響し、彼の視界からヴァンが消えた。割れた水風船のように。

 暗闇……そして、闇が全てを覆い尽くす。

 ――――君が守って欲しい。

 ヴァンは予見していたのだろう。
 自分が彼を残してこの世を去るようなことがあれば、と。
「君がガブリエルのそばにいて」
 クローンに残す記憶のデータの更新のたびに、ヴァンは繰り返す。
「こいつをひとりにしないでやってくれ。どうか……大切な」
 俺の大切なひとだから。
 兄弟同然に育ち、心を許しあった友であり、唯一寄り添える魂の持ち主だから。
 だから自身のクローンを作り、この世に残す。
 ガブリエルをひとりにしない。
 ――――絶対に。
 ヴァンはいつもそう思っていた。
 その思いは残されたクローンの真っ白な魂の中に、深く、彼自身が思っていたより深く刻み込まれて行く。
 不老不死の人生は、ひとりの人間が背負いきれるような重さではない。
 ヴァンの渇望はそれを背負ったガブリエルより、はるかに強かった。
「こいつをひとりにしないでやってくれ。どうか……大切な」

 ――――俺の大切な……。

 激しい耳鳴りがした。
 祭壇の前でフリューゲルが頭を抱えてうずくまる。
「……フリュ! フリュ!」
 アッシュが背中からフリューゲルを抱いた。
 警備員と一緒に博士が走ってくるのが見える。
「何をやってるんだ、おまえたち!すぐにそこを離れなさい」


 セレモニーは予定時間から三時間遅れで始まった。
 一般献花が見送られ、すべての進行は扉の内側、ラボラトリーの関係者と主催者である行政関係者のみで行われる。
 博士が短いスピーチをした。
 アッシュの歌声が、聖堂の天井に響く。
 ヴァンが残したといういくつかの楽曲の中から、ガブリエルが時折口ずさんだものが選ばれ、オルガンが奏でるレクイエムに乗せてアッシュの髪も揺れた。
 倒れたフリューゲルの髪は退行フラッシュバックに巻き込まれ、ヴァンの金色に戻ったまま、街の湿度をんでしっとりと濡れている。
 聖堂に吹く風を感じながら、目を閉じて、囁きかける全ての声に耳を澄まそう。
 きらり、ゆらり。
 命のオノマトペがゆっくりと静かに地上を離れ、ガブリエルの足元から、見えない翼に広がる羽毛のひとつひとつ、動かすことのないその指先へ煌めいて、弾ける。
 弾けて飛び散る。
 大気の粒子に乗せて。
 濡れた睫毛が震える。
 音と記憶が絡みつく。
 ガラスのケースから木棺へ移される時、ガブリエルの唇が小さな光のあぶくをひとつ、吐いたのを見た気がした。

 歌い終わったアッシュの指先が震える。
 銀色に濡れた瞳がフリューゲルを見つめていた。
 フリューゲルもそんなアッシュを見つめた。

 ――――おいで!

 アッシュが祭壇を駆け下りる。フリューゲルの拡げた腕めがけて、全身を投げ出す。
 フリューゲルはそれを受け止め、声を立てずに涙するアッシュの背中を抱いた。
 博士が装置の電源を入れる。
 木棺におさめられたガブリエルの、すべての溶け始める音が静まり返った聖堂に響く。
 銀の雫、金のあぶく。
 ゆらゆらと揺れて乳白の渦へと還る。
 灰は灰に。
 塵は塵に。
 愛は愛に。
 夢は夢に。
 腕の中でアッシュの体が震える。
 ――――愛してる。
 フリューゲルは呟く。
 ガブリエルに、アッシュに。ヴァンにクローンに、自分自身に。
 ――――愛してるよ。
 アッシュが答えた。
 フリューゲルの腕を絡めて、さらに強く抱き寄せる。もう二度と離れないように。
 愛してる。
 ずっと愛してた。
 これからもずっと、愛していく。
 オルガンの最後の一音が、凍えた棺の中の最後のひとかけらが、彼の存在が元に戻る。
 ひととして、人間として、ガブリエルという存在として生を全うし、あの空の向こうに還っていく。
 夢路を辿る、あなたの夢へと。

「――――じゃ、また。

 また会おう。
 フリューゲルはアッシュの手を握り、記憶の向こうに呟いた。
 ――――ありがとう。
 それは確かに、そう答えた。
 二人の耳に響いた。 






 旧ユニヴァーサル都市国家上空、私艇『空中庭園』にて――――

 セレモニーの様子は衛星回線を使って、この宇宙船内へと配信されていた。
 すべてを終えたガブリエルが旅の供に選んだクローンは、コバルトが想像した相手とは違う。
 そのことに最初は驚きを隠せなかったが、セレモニーの一部始終を見終わって、ようやくわかったような気がするのだ。
 ――――あいつは、まだ地上に留まって何かを成し遂げようとしてる。
 そう言ったガブリエルの言葉の真意は、きっと別れではなく愛なのだ。
 ヴァンの魂は生まれ変わって、今はフリューゲルの中にある。
 そんなお伽噺もあながち間違いでもないんじゃないか、とも。

 じゃあ、そろそろ行くよ。

 身支度したガブリエルとキシェが、コバルトのコンパートメントに顔を出したのは、それから数時間後のことだった。
 今度は、どこを旅するんだと尋ねたら、ガブリエルはちょっと考え込んだ風に
「……火星あたり」
 なんて、適当なことを返す。その傍らから、キシェが微笑んだ。
「或いは、木星のそばの人工島とか」
 ああ。コバルトは頷いた。
「あの辺りは治外法権だが、地上よりずっと暮らしやすいな」
「酒もうまいと聞いたよ」
 ああ。コバルトは笑う。旨かった。
「そりゃあ楽しみだ」
 彼はこどものように、小さく手を振った。
 もう、これでガブリエルは自由だ。
 コバルト自身が泣く泣く、愛する子供たちを置いて地上から身をひいた時とは違って、正真正銘、何にも追われることも咎められることもない。
 重すぎる永遠の命に苛まれることも、もうない。

 彼の祭りは終わったんだ――――。

 ふたりを乗せた小型艇が『空中庭園』のゲートを出て行くのと入れ違いに、小さなはだしの足音が近づき、そっとうしろからコバルトに目隠しをする。
「おじいさま、お客様はもう旅立たれましたの?」
 愛らしい声が耳元で囁いた。
 コバルトは微笑む。
 ああ、エタニティ。
「わたくしも、お父さまとお母さまのところへ行ってみたいわ」
 そうだなあ――――コバルトは少し考えてみた。
 ガブリエルとの約束は、取引でもあったのだ。
 ヴァンの魂を解放し、フリューゲルとアッシュを自由に、幸せにすること。
 ガブリエルは体から精神を解き放つ研究に協力し、そのために四半世紀の死を受け入れること。
 二人の利害は一致し、二十五年間の模索の末ようやく、すべては丸く収まった。
 途中、現行の法を逸脱するため、自身の死をも偽装して地上を離れ、私的領有地で実験を完遂しなければならなかったが、無事に終わらせたことにコバルトは満足していた。
「ねぇ……おじいさま」

 そうだな。

 息子達は混乱し、地団駄踏んで悔しがるかも知れないが。
 すべて必要なことだった。
 終幕を迎えた今、このまま自分と娘の存在を知らせないままでいることが、お互いのためとは思えない。
「近いうちに、地上と連絡をとってみよう」
 嬉しいな。少女ははしゃいだ声を上げた。
「お父さまとお母さまに、わたしのことをちゃんと紹介してね」
 ああ。コバルトは頷く。
 ああ――――約束する。

「……必ずよ?」


2023 10-25 10-31  佳原安寿/羽林江利花


※この作品は以下の同人小説をもとに最終譚として執筆いたしました。当時、私のわがままに応え制作に関わってくださった友人諸氏には、改めて感謝、御礼申し上げます。

 キメラⅠ・Ⅱ (1992-1994)
 CMD (1994-1996)

 また原作に沿った内容であるため現代とは社会の認識等、微妙なズレがありますことをご容赦いただけますと幸いです。(桃正宗 佳原安寿拝)


追記(2024/01/15)
原稿内の改行エラーによる段落の乱れやルビ表記など、放置していたものを校正いたしました。お見苦しいものをお出しして大変申し訳ございませんでした。

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