不安定な韓半島 朝鮮戦争まで

金日成総書記の勝算①日本の遺産
アメリカとの取り決め通り、ソ連軍は38度線以北まで軍政を敷きました。当初東ドイツと同様、日本が残した工場設備や社会インフラ等を解体し本国へ輸送しましたが、すぐにやめ、スターリン書記長の眼鏡にかなった金日成を1945年9月に北朝鮮に送り込みました。(北朝鮮の歴史的には、金日成が抗日運動を指揮したことになっていますが、ソ連や中国が異なる史料を公開しています)

ここで、金日成が棚から牡丹餅的に入手した日本の遺産とは、前稿でお話しました重化学工場のみならず、戦時中は軍部の要望で、火薬生産の他、「近代兵器工業の核たる特殊鋼・軽合金の生産、ロケット燃料やウラン鉱の開発まで行われた」*のでした。(実際陸軍は、原爆製造に必要なウランの半分を韓半島から調達予定でしたが、1945年6月技術上の理由により原爆製造計画自体を断念しました)加えて、部品の在庫等も蓄えてあり、しかも米軍の空襲を受けていませんでしたので、完全無欠な状態で残されていました。そして、これらの工場を操業していた約800名の日本人技術者を、朝鮮戦争直前まで抑留できました。

さらに金日成に好都合だったのは、日本が敷いた統制経済システムをそのまま活用できたことです。すなわち、「供出」を「誠出」(無償持ち出し)、村単位の「生産責任制」は「増産突撃隊」に名前を代えただけで、庶民目線では天皇を金日成に置き換えたに過ぎなかったでしょう。結果、日本統治時代と金日成政権との政策上の連続性が生まれ、北朝鮮側にそれほど社会的な混乱はなかったと考えられます。但し、利にさとい経営者や商人等100万人程度(当時の北朝鮮人口の約1割)が、朝鮮戦争前に南へ逃げたと言います。

金日成総書記の勝算②韓国の混乱
一方、米軍政下に置かれた南韓国では、日本本土と同様非軍事化の徹底を求めました。元々兵器工場等はほとんど北朝鮮側にありましたが、仁川製作所の兵器用鋼製造設備・製品の破棄を命令し、日本人技術者を早期に帰国させてしまいました。(軍需産業を再稼働させるのは、1948年建国後のことです。)さらに、統制経済から市場経済へ急転換させ、日本人所有の企業やその資産をノウハウが不十分な民間へ払い下げました。ですから、経済的に相当の混乱が生じ、経済復興を遅らせる要因となってしまいました。

日本の場合、既に幣原喜重郎を始め、米軍政が間接統治で満足できる程に人材はいましたので、この問題に直面することは無かったのですが、通常よく分からない土地で親米政権を誕生させる場合、アメリカ政府は国外で亡命政権のリーダーか類似資格のありそうな人物を探し出し、親米政権のトップに据え、撤退準備に入ります。そして、李承晩に白羽の矢を立て、1948年に大統領選を行い、韓国と軍事同盟も結ばず、同年米軍は韓国から撤退してしまいます。(ソ連軍は1949年までに北朝鮮より撤退)

毎度のことながら、初めて民主主義を導入する際には、大きな混乱が伴いがちです。ここで、李承晩初代大統領はどのような人物かを見てみましょう。日韓併合後渡米し、ハーバード大学、プリンストン大学で国際政治学を学び、初めて韓国人博士号取得者となり、上海の亡命政権で臨時大統領になりました。やがて辞任し、時期を待ち、韓半島の解放(日本敗戦)直後に帰国しました。

当時、「政府の官僚たちは、親米派、親中派、親日派に分けられていたと言います。親米派はアメリカから戻ってきた少数の高官であり、親中派は中国から臨時政府と共に帰ってきた人々で、政治的な名分が立つ人々でいたが、その一方で実務能力がほぼ欠如した者たちでいた。数が最も多かった親日派は、日本留学派や国内大学の出身者で、政治的には弱い立場でしたが、実務能力には最も長けていたといいます。」**

親日派について、もう少し見てみましょう。両班が上手く日本統治という大きな時代の変化にうまく順応できなかった一方、最もうまく順応できたのが、郡県レベルの中堅役人出身者(中人といいます)でした。李朝では、彼らは両班の下に位置付けられ、出世の道は一定以上上がることは見込めない、専門知識をもったテクノクラートでした。(この他、総督府は両班以下の固定身分制を容認せず、江戸時代の穢多・非人的存在で戸籍にも登録されなかった白丁もきちんと戸籍に登録し、通常の社会の一員として認知しました。)

彼らは、新興地主となり、総督府や地方政府の官僚として働き、子弟を日本へ留学させ、近代化社会に必要な知識や技能を習得していきました。彼らを、広義の親日派と呼びましょうか。(一方、狭義の親日派とは、精神的にも日本人になりきろうとし、積極的に日本の同化政策や戦争への協力を呼び掛けた李光洙らです。)

現代でいえば、中人出身者は、イラクの元バース党員が近いでしょうか。フセイン政権内で特に政治的発言力はありませんが、中堅官僚、技術者として政府や外郭団体等で働いていた人々がいました。ただ、役所関連で働くために、フセイン政権下の与党・バース党に入らねばならず、一応バース党員になりますが、国家運営には不可欠な人々でした。アメリカ統治下で、一度はバース党員を公職追放しますが、イラク新政府では、やはり元バース党員でも不可欠な人々は採用せざるをえず、以前同様の職務に復帰した経緯があります。

さてアメリカ帰りの李承晩大統領にすれば、最も重要な中堅が親日派かつ、親日派が人口の半分位であれば、親日派を政治的基盤とする以外にありません。対し、1948年「過去の清算」のため、韓国国会で反民族行為特別調査委員会(反民特委)が組織され、親日派の魔女狩りが始まりました。これに最も反発したのが、半分以上は日本統治期から勤務していた人々がいる警察でした。反民特委が古参刑事を逮捕したため、白昼堂々とソウル市警が反民特委の要員を連行しましたが、李承晩大統領がこの事件を黙認。数か月の後に、反民特委は解散してしまいました。

結局、反民特委が起訴したのは、221名、うち1名が死刑、1名が無期懲役でしたが、1950年に朝鮮戦争が始まるとすぐに赦免され、「反民特委が厳重に処罰した親日派は一人もいない」**という、不完全燃焼の幕引きになりました。この不完全燃焼さが、今日でも尾を引き、韓国世論が当時から今日にまで至る、北朝鮮側の反日プロパガンダに引きずられやすい下地になっていると思われます。

こうした韓国での政局の混沌、手薄な軍備、米軍の撤退及び韓国の安全保障への関与の低さと、北朝鮮側に日本が残した軍需工場群や弾薬貯蔵量を見比べれば、半島統一も可能だと見積もってもおかしくはありません。

朝鮮戦争でも自国の運命を決められない北朝鮮
早速、北朝鮮側はソ連へ朝鮮戦争開始の承認を取ろうとします。しかし、当時はソ連も原爆実験に成功したとはいえ、米ソ間の核爆弾数では大きな開きがありました。そこで、ソ連が援助しない(アメリカから関与を疑われ、アメリカとの直接戦争を避けたい)代わりに、中国へバックアップを要請しました。

困ったのは、中国共産党です。1949年に大陸を制覇したとはいえ、敵対する国民党勢力は台湾でまだ健在です。また、内戦による社会の疲弊を癒す必要もあります。何よりも、米軍が戻って韓国の味方をするとなれば、当時の中国軍にないために決定的に不利な情勢になるものがありました。それが、空軍です。そして、この空軍不在が、アメリカでは中国参戦の可能性が低いと見積もった、大きな要因でもありました。

一方、中国はソ連の技術支援なしには、経済復興を望めず、ソ連からの要請を断れば、ソ連の技術支援に支障をきたしかねません。悩んだ末、ソ連空軍が防空援助してくれるなら、という条件を提示しました。なお、防空援助なしということは、九州から出航したところ、沖縄にたどり着く前に米空軍の攻撃に遭い、ハチの巣にされて撃沈した航空機0機搭載の戦艦大和と同様の運命をたどるということです。

逆に、一番楽観的な金日成政権は、中国軍の援助は不要とさえ考えていたようで、まずは自軍のみで南下しました。国境近くのソウルを3日で落とし、李承晩政権は釜山にまで退却しました。ここで目覚めた国連軍(主に米軍)が、李承晩政権を物心両面で支援し始めます。旧日本軍将校たちのアドバイスを受け、国連軍はソウル付近の仁川から電撃上陸作戦を敢行し、北朝鮮軍を38度線以北にまで追い上げます。そこで、青くなった金日成総書記が中国に泣きつきましたが、中国はソ連に求めた防空援助を与えられませんでした。

中国共産党首脳陣は悩んだ末、毛沢東主席はついに派兵を決断しました。そのため、再び38度線付近まで巻き返したものの、それ以上の兵站の延伸は危険と判断した中国軍がさらなる南下をやめ、北朝鮮軍も同意せざるを得ず、膠着状態になります。本来この辺りが潮時なのですが、ソ連や中国はアメリカの力を削ぐいい機会だと考え、継続しました。

一向に休戦交渉で譲歩が見られない、米軍は1952年から「航空圧力戦略」を開始し、第二次世界大戦向けに余剰製造してしまった武器・弾薬のちょうどいい廃棄場所と言わんばかりに、5つの水力発電ダムを破壊し、発電能力は1割以下に落ち、平壌への爆撃も一層激しくしたと言われています。これが功を奏したか、1952年2月、金日成が毛沢東へ戦争終結を求めて泣きついたのですが、聞く耳を持たれませんでした。1953年スターリン書記長の死を契機に、ソ連の後継政権がまともにアメリカと渡り合える自信がなくなったため、翌年朝鮮戦争はようやく停戦となりました。

当時は東側陣営として一真岩のように見えていましたが、実際にはこのように思惑が錯綜し、反目ばかりしていました。防空援助を得られなかった中国軍の死傷者数は、約90万人に上る(対して米軍は約15万人ですから、いかに人海戦術で切り抜けたかが分かります)と言われ、多大な犠牲を払った割には、戦争中の方向性について意見が割れ続け、北朝鮮と信頼・協力関係が構築できないという、得るものが少ない結果となりました。

一方、戦後アイゼンハワー政権は、平和維持のため1950年代に韓国に約600発、沖縄の嘉手納に約800発の戦術核を配備しました。これに対し、北朝鮮は中ソしか頼る相手がいない一方、彼等への不信感を拭えずに彼らの核の傘に入ることを良しとせず、中ソに核開発に関する技術支援を求めました。核保有国にとり、核技術の拡散は自らの国際的地位に不利に働きますから、当然お茶を濁され、北朝鮮は核兵器の独自開発を誓うのでした。

*木村光彦著「日本統治下の朝鮮」
**李榮薫著「大韓民国の物語」

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