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バブル崩壊で就職できなかった私の30年

大学卒業から30年正社員として務めたことがない

こんにちは、太田です。
私は、大学卒業後から30年、
正社員として努めた経験がほぼありまん。

臨時採用職員、派遣、アルバイト、パート、
日給でのお手伝い、フリーランス、1人起業

これが私の人生の中での
最大のコンプレックスでした。
そんな思いを抱えて生きてきた30年を
振り返った記録です。

コンプレックスがなくなったある会話

先日あるセミナー交流会で
同じ年齢の女性と話す機会がありました。
その方は30年間1つの会社に
勤務しているとのことで

それを聞いた瞬間に
軽い嫉妬心を覚えました。

「30年も1つの会社に
勤め続けられるってすごいですね。
私なんて、大学卒業してからちゃんと就職した
ことないからうらやましいです
なんでこんな会にわざわざ参加するんですか?」
と私。

「それが嫌なんです。
辞めたくても怖くて辞めれないんです。
太田さんはお一人で
起業もされててすごいじゃないですか
そういうの憧れます」

「そういう何かきっかけみたいなものが欲しくて
ここに参加してます。
どうやったらなれるんですか」
とお相手の女性

この言葉にちょっとびっくり。
正気かしらこの人と思いました。

続ける力VS稼ぐ力

私が20代の頃は、1つの会社に入社したら
定年まで働くことが良いこととされていました。
なので、就職活動でもいかに良い会社に入るかが
人生の命題、運命を分けるものになっていました。

私は、大学卒業時、就職できず
22歳の時点ですでに人生の落伍者だったのです。

でも30年経った今は、1つの会社に縛られない
会社員でも副業をするのが当たり前
会社自体もいつどうなるかわからない状況です。

もうすぐ定年を迎える50代の人たちは
定年後どうしていったら良いのかわからない
そんな時代になっているようです。

世の中がどうなろうと
どんな時代がこようと
自分1人で稼いでいける力は
必須になってきているんですね。

おかげでその力だけは
30年間鍛えてこれたんだなと
改めて思いました。
30年間の間に
世の中の価値観が変わったことで
私のコンプレックスも解消しそうです。

何かに追われるように生きてきた

20代の頃は
『ちゃんと就職もしてない』
『結婚もできない』
このままで将来どうするんだ
と散々親から言われ
ずっと何かに追われるように
生きてきました。

周りの人より必死な感じで頑張っていたのも
このせいかもしれません。
親のことを恨む気持ちと同時に
親からのこの言葉のおかげで
頑張ってこれて今があるので
今となれば感謝です。

ただ、1人起業家に
なりたくてなったわけじゃなくて
正社員になれなくて
残された道が
1人で頑張るしかなかった
だけなんですけどね。
では、22歳で大学卒業したばかりの私を
振り返ってみましょう。

バブル崩壊で自分の人生もつんでいた20代

人生を甘く見ていた20代

大学4年生の夏が終わった頃、
証券会社の損失補填問題がニュースになり出し
翌年明けて、湾岸戦争が始まりました。

当時の私は、信州大学教育学部美術科の4年生。
4年になると教養や必修の授業がほとんどなくなり
毎日一日中絵を描いたり、バイトしたり
友達と遊ぶという生活でした。

大学生活があまりにも楽しくて
『まだ働きたくない』
『もっと好きなことしていたい』
と真面目に就職活動してませんでした。

当時はバブル崩壊前の好景気で
地方の国立大学の学生でも
有名な一部上々企業に
内定をもらっていたり

教職員採用試験を
受けた人は全員合格していたので

1、2年遊んでも働く気になれば
自分もそうなれるという
謎の自信がありました。
というか、深く考えず、自惚れていました。

バブル崩壊・閉塞感と甘え

でも、翌年から就職市場は一期に冷え込み
一般企業からの新規採用の募集は激減
公務員採用試験も受験者が増えて
受かりにくいという状況になりました。

結局、実家に戻り、そこで
臨時採用で小学校の先生をしていました。
20代前半の3年間ほどのことです。

大人になってからの親との同居
昔から繋がりのある人との人間関係
学校という職場で求められる先生らしさ
田舎という土地の閉塞感など
生活のすべてが嫌でした。

今の自分ではない
違う自分になりたい

今、ここではない何処かに行きたい

もっと自分には何かできるはずだ
本当の私は違うはず

私の人生はこんなはずじゃなかった
そんなことばかり考えていました。

一方で田舎の実家暮らしでの
『安全・安心・安定』の生活を享受してました。

家賃は払わなくていいし
食事も出てくる。

もらったお給料のほとんどを自由に使える
家族は面倒くさいけど寂しくはない
学生時代からの友達もいるし
仕事に行けば『先生』と呼ばれる。

何不自由のない生活。

このまま結婚して
学校の先生の仕事を続けて行けば
それなりの人生を送れるはずだし、

他人から見れば理想の人生かもしれない。

なのに、その生活と未来がどうしても
受け入れられなくて
25歳の夏に家出同然のように
東京に出て、1人暮らしを始めました。

気分だけの「自由を手に入れた上京

東京といっても狛江市という
新宿に出るのに小田急線で30分以上かかる土地。

更に、駅に出るのに歩いて10分以上かかる
アパートの目の前が畑という場所でした。

今思えば、そこって東京なの?
と笑えるのですが、

当時の私は、東京都名の付くところに
住み始めたということだけで

自由や可能性を手に入れた感覚で
ワクワクしていました。

世間知らずで痛い行動の連続

仕事も決まっておらず
住み始めてから探す

求人誌を買ってきて、
「あ、この仕事いいかも」
というノリで
電話をかけまくるという

何とも痛々しい25歳の
勘違い女子

バブル崩壊3年目のことです。

東京の求人情報には
選び放題のように求人募集が
乗っていて

「あ、この仕事いいな」
と思うものから次々と電話を
かけていきました。

当時私が憧れていた仕事は

「雑誌編集・兼ライター」

「Gデザイナー」

早速応募しましたが
なんの経験もなく
田舎から出てきたばかりの私が
採用されるわけもなく

電話で経歴を聞かれた時点でお断りなど
希望の職種はほぼ不採用でした。

今思えば断られるのも当然ですが
世間知らずというか本当に
自分が見えていないとはこのことです。

やっぱり私には無理なんだと
今度は自分の経験が活かせる仕事に応募

採用されたのはフランチャイズ経営の
学習塾の教室長でした。

でも勤務先が埼玉県草加市

住み始めたアパートからは片道2時間かかります。

勤務地の近くに引っ越せるか?
と聞かれ、切羽詰まっていた私は
「引っ越せます」
と言い、採用されました。

東京に出てきて最初に住んだ
アパートを1ヶ月で引っ越し。

足立区に住むことになりました。

勤務地の学習塾まで2駅の場所。
塾教室と自宅アパートの往復の毎日が始まりました。

学習塾では、生徒さんと親御さんとの面談

生徒とアルバイトの大学生のスケジュール管理

月謝の入金管理などが主な仕事で

先生が足りないと補助で入って
私も教えるということをしていました。

塾での1番のかき入れ時は、
夏休み、冬休み、春休み

学校が休みの時期に
いかに塾に通ってもらうかが
売り上げにつながります。

私の運営していた教室が
冬休みの特別講習で
そのエリアでトップの売り上げになりました。

入って3ヶ月目のことでした。

ただ、この学習塾の教室長の仕事も
時間が経つにつれ

「私はなんのために東京に出てきたんだ」

「実家で先生をしてた時と変わらない」

「こんな仕事を続けていてはいけない」

「私はもっと私のやりたいことをやらなきゃ」

とまたまた悪い病気が出てきたのです。

務めてから半年が経っていまいした。

ただ、今やめてもなんの技術もスキルも
ないのだから、結局同じ

デザインや出版・編集・イラストのような
職種の仕事に就くことはできません。

何かパソコンのスキルをとにかく身につけないと
永遠にこの教育業界でしか結局仕事ができない。

でも学習塾は午後2時〜10時 までの
8時間勤務で週1日の休みだけ

塾運営のストレスで休みはグッタリの状態でした。

同じお金をもらうなら、
派遣で効率よく稼いで
空いた時間でパソコンスクールに
と考えました。

それくらいには私も
賢くなっていました。

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