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私はやらかしていた

  こんばんは、児童養護施設の検索結果をよりグラデーション豊かにしよう、というテーマを掲げながらレベル上げ中のゆきちかさんです。

やっちまったよ!と気づいた話

  昨日の記事、やる気満々だぞ!みたいな内容を書いたのですが、「例えば…」から書き出した子どものイメージが、どうも「児童養護施設にいる子ども」というカテゴリーで物を語っていたのではないか…ともやもや感が増しています。避けていたことに自ら嵌りに行った感じです。

  児童養護施設にいる子どもの像を恣意的に切り取って一般性を持たせた、という作業になりますが、顔も名前もない者の存在を語ることで、「その子ども」には全くもって不要で、むしろ悪影響の一端を担うイメージ材料を立ち上げてしまっています。

  なるほど、こうやって善意を模して問題の再生産に加担する言葉が容易に投げ込まれるのか!と再発見をした気持ちもあります。(9割方恥ずかしい悶絶の気持ちでのたうち回っている)

  内藤晃さんという方が書いた「施設長の資格!」という著書にはこう書かれています。

自分の思い、信念にもとづいて相手のためにと思うとき、その思い、信念がたとえどんなに純粋であっても、その思いがわき上がるときに、同時に虐待の芽が生まれるのです。そして、知らず知らずのうちにその芽を育て始めてしまうのです。そして、「自分の介護・支援を通じて、自分の思い・信念を受け入れてくれた」という喜びは、虐待の芽を育てる格好の肥料となるのです。

  正にこの、虐待の芽がぴょこっと姿を現したわけですね…。記事の訂正も考えましたが、この気づきとセットで残しておこうかと思います。間違いへの気づきを含めて発信を続けて、その語のプロセスを作ることが説明責任ってものだと思うし、こうやって自分都合な芽が出ることに気を配って、自己目的化を防ぎ続けると、単純にちょっとはマシな大人になれるかもしれない。はい、反省は一度区切りましょう!

さて、

  さて、やっちまった部分を抜いて考えると(これまた都合良い話だけど)、前回記事で言いたかった内容は「機能する機能が残り、機能しない機能は廃れていくという、その人なりの生き方が形作られるプロセスが幼少期から続いているんだよ」という至極単純な話になると思います。
  自己プロデュースが大事だ、というのもその通りで、自己目的化を防ぐ自己プロデュースが大事だよね!ということを今日は付け加えたいと思います。

  次回はこの「機能」というものを考えていきたいなー(でも絶対難しいよなー)と思います。もしくは自己目的化という弊害を乗り越えて「普通」と「特別」を語るには…?という話も良いかもしれません。全く違う道に進んでも良い余白を残して、今日のところは終わります!

ゆきちかさん

  

自分の好きな施設に訪問して回りたいと思います! もしサポートがあれば移動費と施設へのお土産代に費やします!