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特別視、という眼差しから

  こんばんは、ゆきちかさんです。児童養護施設の検索結果をよりグラデーション豊かにしたい、という考えのもと、今日も記事を投げ込んでいこうと思います。

「特別視」について考える

    今回は「普通」と「特別」の境目を見出す「特別視」について注目してみようと思います。上手くまとまるといいんだけど。

 以前より「普通」と「特別」についてお話してきましたが、この2つの言葉は地続きのグラデーションを作っていて、ある時に近いー遠いの距離感で語ることはできても、近いと遠いがじわじわと変わり続け、固定化できない性質を持っていると言えます。一つの考え方の絶対化を防ぐ、または長引かせないという性質であると言えます。
 これは、一方では「普通」を共有して、コミュニケーションコストを抑えながら集団で効率よく物事を運ぶ、という作業を壊してしまう一要因でもあります。
 複数の人同士が一緒に暮らしていくことを考えた場合、当事者同士で「普通」の範疇が共有されると良いのですが、同時に「普通ではない」範疇(=特別)が共有される必要があります。絶対的な線引きがなされるまでの必要はないにしても、「普通」を生み出すには、明らかに「特別」な何かの存在が必要です。

「特別視」は「普通」を立ち上げるための努力なのかも

 何かを「特別視」することは、本質的には境目のない雑多な状況を分類し、秩序を生み出すきっかけづくりになります。「普通」と「特別」を分けて、この距離感を固定する、という働きです。ここには「特別視」された側の視点はありませんが、本来的にはどうにか混乱状況から安心と安全を生み出そうとする、生存のための努力、という側面があるのではないかと思います。
 これにより立ち上がった「普通」は、その中にいる人に一定の秩序を与えてくれます。無秩序な環境の変化に翻弄され、ヘトヘトになっている人にほど「普通」は安らぎを感じさせてくれるもののように見えるのだと思います。

  「普通」の中身が何であれ、まずは「普通」になりたい。「普通」を目指す動機には切実さが籠もっています。

  …こうなってくると「普通」こそ「特別視」されるべく存在しているようにも思えてきます。かといって、「普通」に埋もれたならば「特別」を志向し始めたりするものですし、ひたすら周回を繰り返す季節みたいなものにも見えてきます。

  もしどちらにも留まれないのだとしたら、良く右往左往する手立てのようなものを考えたいですね。んー、また次回、もう少し深めていきましょう。

ゆきちかさん

  

  

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