台風一過の蝉

9月の下旬にも差し掛かろうかという日だった。

不規則な動きをする台風が通り過ぎ、まさに台風一過という言葉がぴったりな丘の上のキャンパス。

研究室の外からは、晴れ間を見計らったように鳴く1匹のセミの声。ただその声は、例えるならわたしが50mを全力疾走した後のように息も絶え絶えで、やけくそと言わんばかりの、ある種断末魔のような叫び声にも聞こえた。

わたしは彼のこの声に何を重ねるべきか。

盛夏のころであれば、体感温度を底上げするただのやかましいセミの1匹に過ぎないのだが、このセミに関しては不思議と何かわたしの心に訴えかけてくるものがあったのだ(まあ、セミからすれば求愛の歌の類なのだろうけれども)。ましてや何かを重ねるにしても、無機質なブラインドが掛けられた窓の向こうの話である。彼の必死に鳴くその姿が見えるわけでもない。ただ姿が見えなくても私の意識をしばらくつかんで離さない「何か」があったのだ。

セミが鳴くのは、今しがた述べたように、求愛行動の一種であるという。オスが自分の居場所を相手、つまりメスに知らせるのだ。ただ、季節がうつり、彼は取り残されてしまったのではないだろうか。タイミングを間違えたがために、誰にも気づいてもらえなかったのではないだろうか。彼の声が残りわずかな力を振り絞ったような、悲哀に満ちた叫び声にも聞こえたのはそういうことかもしれない。

この見えない窓辺のセミの姿は(求愛でないにしても)、評価されずに消えていく研究者や芸術家などの悲劇も重なるところがあるように思う。自分にもこういう不安がないわけではない。ただ、息も絶え絶えになりながらも最後まで力の限り叫び続け、誰かに見つけてもらうために自分をアピールし続ける姿はセミのようにありたいものである。

こんなことを考え、書き留めようとキーボードを打っているうちにその声は聞こえなくなった。場所を変えたのか、そこでこと切れたのか。

わたしは窓辺まで確かめに行くようなことはしなかった。


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