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私のなかのキライを噛みくだく途中

あなたには嫌いなものはないだろうか?

グリーンピースが嫌い、
脂まみれのフライパンを洗うのが嫌い、
親が喧嘩している場面に遭遇するのが嫌い、等々。

全部好き、と屈託なく言える人は中々少ないと思う。
逆に、あんまり気にならない、という人はそこそこいるかもしれない。


何故こんなことを書いているかというと、私は「嫌い」と感じている場面を、やんわりとベールで包んだ「苦手」という表現でやり過ごしていることに気づいたからだ。

「嫌い」。
ド直球、それは好ましくない、を意味する。

それは一度認知してしまえば、「嫌いセンサー」が赤外線温度検知のように、自己防衛機能として働きだす。

そして、センサーが光ったり警報が鳴ったときには、脳内の回路がシャットダウンに入るかのように「無」の心境に移行する。

「無」の状態は無防備なように見えて、さびれた商店街のシャッターの如く、心を閉ざしている状態だ。
だから、意外と堅牢な壁で心を守ることが出来る。
その代わり、シャットダウン後の為、目から光が消えるという副反応がある。
この状態を続けるのは心の健康上すこぶる良くない。


では何故ワタシはソレがキライなのだろう。


そもそも「嫌いセンサー」が動作しなければ、そのような自己防衛機能も働かないし、「そわそわ」、「いらいら」することもない筈なのだ。
自分の健康は自分の意思で守っていかねばならない、と痛感した日から私はこの原因を考えたり考えなかったりしている。


「キライ」。
それは傾向を指すこともある。
「〇〇のきらいがある」のように使うその言葉と、
私の心の中の傾向を照らし合わせていく作業。

時々スマートウォッチのストレス計測機能を参照しながら、今日も私は嫌いを噛み砕いている。

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