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「ありのままの自分」っていうのは揺れる部分も含めてのことなんじゃないのかね

できればなるべく前向きな気持ちで、穏やかに生きていきたいと思っています。

かつて、自分のことを好きって言えず自信もなく自分のことを責めてしんどい時期をそこそこ長く過ごしてきた私は、現在穏やかでいられることが嬉しいんです、とても。
この状態が快適だから、このままでいたいのだと思う。

そんな私でも、たまに暴れたいような気持ちになることがあります。
特別なにに大きな不満があるってわけでもないんだけど。
「あぁぁぁぁぁーーーー、めんどくさい!全部が!!」となるときが、ある。

保育の仕事は好きだし子どもとは真剣に向き合いたい、子どもの未来のために役立ちたいと思っている。
けど、もう心身を削ってまで働きたいとは思わないし、「帰りたい」「働きたくない」と思う日だって当然ある。
なんならわりとある。

人間関係(特に職場など)でいえば、穏やかにみんなと楽しく過ごせるほうが快適。
その場が和やかで快適であればよいと思っているだけで、必ずしも仲良くなりたいわけじゃない。
「チェッ」と思うことだって当然ある。
だけど、わざわざそれを大きくしても物事は解決しないし、自分も不愉快になるだけと、経験上知っている。
もし私の態度が悪くなってもめんどくさいことが起こらず、そんなときもあるとみんなが受け入れてくれるならば、「はぁぁ?」とか、「いやちょっとさぁ!」と言いたい気持ちのときもある。

人はその場その場で、自分の身を守ったり相手を守ったりみんなを守ったり、相手に敬意を表すために仮面をかぶることがある。
それはそれで当然のことで、なんら恥ずかしいことではないと、私は思う。

こういうことを書こうと思ったのにはきっかけがあります。
先日の『マツコ会議』のぺえさんが出た回。

求められるキャラクターになりきって頑張りすぎた結果、心の限界がやってきて壊れてしまい、現在は自分をさらけ出すYouTuberになっているというぺえさん。
それなのに表に出る仕事で飾ってしまう自分に対して自己嫌悪感があるみたいな話をされたときにマツコさんが、場所場所で顔を変えるのは当然だ、みたいなことをおっしゃっており。

それを見たときに、自分を顧みたんです。
それで私も、さまざまな場所に向けた顔があってよいと考えていると思ったのです。
それも含めて自分。
人間のなかにはさまざまな矛盾があって、もうそういうもの。
それを抱えたまま生きるのだ、と思っている。

どんな自分でも許してあげよう、と全力で決めたときから、そういう考え方になりました。
ありのままの自分を認める、みたいな言葉ってよく聞くけれど。
それと「もうこれでいい」とかいう諦めとはイコールじゃないと思ってる。

ぺえさんのファンの方の話を聞いたマツコさんが、「(人生に)乗り遅れて…とか話したりしてたけど、みんな諦めてない人たちだよね。まだやってやるって感じ。ちゃんと生きてる」といったようなことを仰っていて。
ほんとにそういうことだと思う。

「ありのままの自分」と野心みたいなものも同居できるはずだと思っている。

すっきりした答えが出るもんではなく、ぐちゃぐちゃのまま生きるのだ。
考え方が変わったっていい。
この文章に対して将来の自分がもし「んん??」と思っても、それはそれでいいのだ。

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