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清富、という生き方

この続きと言ってもよいかな・・↓


日月神示 月光の巻

第二十一帖
他の宗教に走ってはならんと云う宗教もそれだけのもの。判らんと申してもあまりであるぞ。
同じ所に天国もあり、地獄もあり、霊界もあり、現実界もあり、過去も未来も中今にあるのぞ。同じ部屋に他の神や仏をまつってはならんと申す一方的なメクラ宗教にはメクラが集まるのぢゃ。病気が治ったり運がひらけたり、奇跡が起ったりするのみをおかげと思ってはならん。もちと大き心、深い愛と真の世界を拝めよ。とけ入れよ。浄化が第一。
金が好きなら金を拝んでもよいのぢゃ。区別と順序さへ心得て居れば何様を拝んでもよいぞ。金を拝めば金が流れてくるぞ。金を拝み得ぬイコヂさが そなたを乏しくしたのぢゃ。赤貧は自慢にならん。無神論も自慢にならん。清貧はまけおしみ、清富になれよと申してあろうが。清富こそ弥栄の道、神の道、大(※記号あり)大神のマコトの大道ぞ。

第六十帖
そなたは自分の力を人に見せようとしてゐるが、無邪気なものぢゃのう。自分の力がかくせぬようでは、頭に立つこと出来んぞ。何も彼も出して了ったのでは味がなくなるぞ。そなたはよく祈る。祈ることは結構であるなれど、祈るばかりでものごと成就せんぞ。為すには先づ祈らねばならんが、そなたはそなたの神にのみ祈ってゐるぞ。為すのは己であるから、己にゐのらねばならんぞ。己に祈りた後、己が為さねばならんぞ。乳房与えられても自分で吸はねば自分の身にはつかぬ道理ぢゃ。だが、為したのみでは未だ足らんぞ。時々は省みなければならんぞ。そなたは形や口先ばかりでものを拝んでゐるが、心と行と口と三つそろはねばならん。三つ揃ふて拝むならば、どんなものでも与へられるのぢゃ。拝む所へものは集まってくる。神も集まってくる。足らぬものなくなるぞ。余ることなくなって、満たされるのが まことの富ぢゃ。清富ぢゃ。

自分はどう生きたいのか。

この問いの答えを見つけ出そうとする時、必ず引っかかるのが、「お金」の問題である。まだここから抜け出せていない。

ほしいと言えばほしいが、額が問題ではない気がする。
必要な分はほしいが、蓄財には興味がない。
タダで仕事をしてあげたいが、それでは経営が立ち行かない。

こんなあたりを、いつまでたってもウロウロしている。

だが今回、まちがいなく「これだ!」と思えたのが、この

清富


というあり方である。

富んではいるが、清い・・というあり方に、強く心魅かれる。

仏教でも、「お金も、それが”欲”にまみれていなければ、たくさん持っていて構わない。」というが、同じことだろう。

そこで、先ほどの問いであるが、

・清くあること
・富んでいること


これが僕の「生きたい」生き方のような気がする。
在り方、と言うべきかな?

であれば、清くあろう。
清い自分であろう。

富もう。
「富んでいる」自分を受け入れよう。

特に後者は、僕が苦手とする領域だ。
”イコヂ” なんだろうか、だいぶマシにはなっているのだけれど、いまだにそれを手離せない。もっとも、日月神示では、お金は「富」の一部に過ぎないが・・

この受け入れが、ピンポイントで僕が克服すべき項目だ。

何がそんなに難しいのかって?

僕にもよくわからないんだけど・・(笑)
ただ・・1年前より、マシな内容になっていると思う。




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