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2話 タイムリミット

創作SM小説 透明な首輪
(1900字)



さすがにまずい。



Tは焦り始めた。
所長の話はまだ続いている。いつもとは違い、何かを話し出そうとしては後回しにしているような妙に歯切れの悪い喋り方だった。

いっそどんな無茶な仕事の命令であっても良いのだが、所長のこの調子ではあと数十分は話が続いてしまいそうだ。
数日前にやっとアポイントの取れた新規顧客への訪問時刻を遅らせるわけにはいかない。

いよいよTがその旨を切り出そうと口を開いた瞬間、

コンコンッ


所長室の扉から軽いノックの音が聞こえ、振り向いた二人の目線の先、開いたドアから総務課のベテラン事務の西岡が顔を覗かせた。


「所長、頼まれていた資料をお持ちいたしました。」
「ああ、西岡くん。早かったね。ここに置いといてくれ。」
「かしこまりました。」


所長はデスクの脇にある地層のように幾重にもファイルの積み重なった箇所を指差した。
彼女の持ってきた資料もまた数日間放置され、あの地層の一部となるのだろう。そして必要になればまた持ってこさせて、そこで初めて目を通してネチネチと小さなことを指摘する。
所長の悪癖だ。

西岡はカツカツと小さな靴音をたてながら淀みなく所長のデスクに向かう。
資料を置くためにTの横に並んだ際に、品の良い花のような香りがTの鼻腔をくすぐった。
資料を所長の机に置いた後、西岡はTに顔を向けて事務的に言った。


「課長、先程、都築つづきくんが課長のことを探していましたよ。外出前にM様にお持ちするプレゼン資料のチェックをしてほしいとのことです。」
「外出する予定があるのか?」
「はい、14時半に〇〇社へ訪問予定です。」
「馬鹿。新規じゃないか。そういうことは早く言え。くれぐれも先方に失礼のないようにな。」

Tは右の拳をぐっと握り締めながら、抑揚のない声で「はあ。わかりました。」と応えた。

Tと西岡は事務所内の通路を歩いている。

「助かったよ。なかなか切り上げられなくて。」
「いえ、気をつけていってらっしゃい。」

先程、所長室で見せた表情とは違い、労りを含めた笑顔で西岡が言った。
急いでいるTに余計なことは言わず、端的に済ますのがベテランらしい気遣いだった。

西岡は総務課の古株だ。歳は50手前と噂されているが、とてもそうは見えず社内外からは美魔女と囁かれている。髪はいつもきっちりと結い上げられ、鼻筋の通った整った顔、丁寧な言葉遣い、すらりとした体はいつも背筋がピンと伸びていて、座っている時も歩く時も姿勢が美しい。体幹がしっかりしているのだ。

社歴は長いが横柄な態度もなく、新人にもTのような中途採用の社員にも等しく優しい。総務課は女性社員が6人もいるが女性独特のギスギスとした派閥はなく、いつも穏やかな空気の中、皆、感じ良くチャキチャキと仕事をしている。取りまとめる西岡の采配と人柄の良さが伺える良いチームだ。


Tは西岡に軽く頭を下げ、早足で自席へと向かった。

「都築、M様へのプレゼンのチェック、夕方でもいいか?」
「へっ?アポは再来週なんでまだ作ってないですけど…」

コーヒーを飲みながら隣の席の渡辺と雑談をしていた都筑は課長の急な呼びかけに驚きつつも、のんびりとした様子で応えた。

「西岡さんにさっき言伝てしたんじゃ……」
「あーそれ、課長がまた所長に捕まってるみたいだったから西岡さんが気い回したんじゃないっすか?俺何も言ってないですもん。」

都築は今年で28になるが、くだけた若者言葉混じりの謎の言語を使う。横にいる同期の女性営業、渡辺も似たような口調だ。悪気があるわけではなく、どうやら本人たちはTに対して丁寧語を使っていると思っているらしい。
他の課の上長や所長、電話での応対を聞く限り、きちんとした敬語は使えるようなので、自分への親しみの表れなのだろうとTは解釈をしていた。

「そうか。とりあえず今見るものはないんだな。
じゃあ行ってくる。戻りは17時前くらいになると思う。」
「はーい。私、ホワイトボードに書いておきますね。」
「あっ来週の水曜日にはプレゼン準備しますんでチェックお願いしまーす。」

Tは鞄の中をさっと確認し、若者たちに見送られながら外へ向かって歩き始めた。
廊下の途中にある喫煙室の横の自販機でペットボトルのお茶を買う。その場で一口飲みながら、「結局なんで所長に呼び出されたんだ?」と疑念が頭をよぎったが、キャップを閉めると同時に意識的に忘れることにした。

事務所の扉を開けるとムワッとした空気がTの身を包んだ。もう9月の終わりだと言うのに日中はまだ暑い日が続いている。

国道は混みそうだから、川土手を走るか。
40分ってところかな。

客先への最短ルートを考えながら白のセダンの扉を開け、Tはその大きな体を滑り込ませた。



3話に続く





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