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ケリー・ライカート論 「ショーイング・アップ」と「ファースト・カウ」

欠乏しているものを欲するあまり、現にあるものを台無しにしてはならない。
現にあるものも、われわれの願い求めているものであることを、
考慮せねばならない。

エピクロス 「教説と手紙」

1、パン職人と、彫刻家?


2023年に開催された「小津安二郎生誕120年記念シンポジウム “SHOULDERS OF GIANTS”」に登壇する為に初来日したケリー・ライカート監督は、「TIFF Times」によるインタビューで、最新作の「ショーイング・アップ」について
次のように語っている。

ショーイング・アップ』(2022)では『雨月物語』(1953/ 溝口健二)のことをよく考えていて、 『ファースト・カウ』(2019)でも大きな影響を受けています。

「ショーイング・アップ」に陶器がたくさん出てくることもあって、(今回の来日では)京都まで足を伸ばして、陶芸家の河井寛次郎(1966年、71歳没)記念館に行ってきました。お住まいだった場所が工房で、 そこに巨大な窯があるんです。
美しい場所でした。

1820年代西部開拓時代のオレゴンが舞台の「ファースト・カウ」が、戦国時代を舞台とする「雨月物語」 に共通点があることは分かる。「雨月物語」の、貧農の傍ら副業として焼物(陶器)を作っていた源十郎が戦の好況に乗じて焼物を売って大儲けしようするというストーリーを、陶器からドーナツ(スコーン?)に 変えれば、一応「ファースト・カウ」の物語にはなるからだ。かたや「ショーイング・アップ」は現代の美術学校が舞台で、表面的には「雨月物語」に全く似ていないのだが、ひとつの共通点がある。「雨月物語」 の源次郎が陶工であるように、「ショーイング・アップ」のリジーも一種の陶工であるという点である。リ ジーは彫刻家という事になっているのだが、彼女の彫刻作品は、通常我々が彫刻と言われてイメージするブロンズ彫刻とは全く異なる。リジーの作る彫刻は、ブロンズ彫刻の持つ「確かさ」や「堅牢さ」のようなイ メージから最も遠いところに在る。映画に登場するリジーの彫刻はどこか危うげで、私は映画を見ながら 「大丈夫か?壊れやしないか?」と度々思わされた。そんな彫刻があるだろうか?(ジャコメッティ彫刻 の、ポキっと折れそうな細さは、どこか似ているかもしれない)映画を見るものにそう感じさせる理由は、 リジーの彫刻が完成する為には、火で焼成するという「制御不可能・予測不可能」な「不安定」なプロセス を通過させる事が必要不可欠だからだ。更にその窯の責任者が、アンドレ・ベンジャミンakaアンドレ・3000 (アウトキャスト)である。これは絶妙なキャスティングだと思う。映画を見るものに「大丈夫なのか?」 と思わせるこの不安定性、素晴らしい個性と演技だ。何故リジーは、私たちが通常イメージするような普通 のブロンズ彫刻家ではいけなかったのだろうか?それはケリー・ライカートの作品全体を貫く「外」という 主題と大きく関わる。「ショーイング・アップ」のリジーは彫刻を作る人というよりも、「外」から彫刻を受け取る人なのだ。「ファースト・カウ」のクッキーが、スコーンを作る人であるよりも、牛からミルクを、 森からキノコを受け取る人であるように。しかし「雨月物語」がとても奇妙な分岐をしたものだ。しかしより奇妙なのは、溝口についてよく考えていたという「ショーイング・アップ」のラストシーンが、溝口とは別の偉大な映画監督の作品を、私に思い起こした事だ。その作品はカール・Th・ドライヤーの「奇跡」(1955年)なのだが、これは溝口健二が、ドライヤーを呼び起こしたという事なのだろうか?このラストシーンについては、後ほど触れることにしよう。

2、外から入り込むもの

注意力は、その人の思考を宙吊りし、自由なままにし、真空にし、 対象に入ってゆけるようにすることにある。 そして、用いるよう仕向けられている獲得された多様な認識を、思考の近くではあるが、 思考よりも低い次元で、思考と接することなく、注意力それ自体のうちに保つことにある。 思考は、すでに形成された個別の思考に対して、山頂にいる人のようでなければならない。 山頂にいる人は、自分の眼前のものを眺めながら、同時に眼下に広がる森や平原を眺めはしないが、 それらは視野に収めている。そしてとりわけ思考は、真空の状態で、待機の状態で、何も探さず、 その赤裸々な真実において、思考に入り込んでくる対象を受け取る準備ができていなければならない。

シモーヌ・ヴェイユ「神への愛のために学業を善用することについての省察」

「ファースト・カウ」と「ショーイング・アップ」を人間の物語ではなく、動物の物語だと捉えれば、 「ファースト・カウ」は「外から内へ連れてこられた牛」の映画で、「ショーイング・アップ」は「内へ迷い込んだ鳩が、外へ飛び立つ」映画だと言う事ができる。この一見すると似通った構造を持つ2つの映画が 見る人に対照的な印象を与えるのは、「ショーイング・アップ」の鳩とは違い、「ファースト・カウ」の牛の周りには最後に柵が築かれてしまうからに他ならないだろう。もちろん私たちは、牛の運命にクッキーとキング・ルーを、鳩の運命にリジーとジョーを(メタファーとして)見る事はできる。しかしそれでは、 「ファースト・カウ」を見終えた後に残る痛恨を説明できない。私は、その見方(メタファー)には、大した重要性はないと言いたい。そんなメタファーではなく、「柵」や、「中のミルクが土にこぼれて、置き去りにされたバケツ」が持つ物質性が、「ファースト・カウ」を悲劇的な映画にしている。

「聞いたよ。連れてこられる道中で、旦那さんを、子供を亡くしたんだってね。大変だったね」と優しく語りかけたはずの自分が原因で、牛を更なる受難に巻き込んでしまうという悲劇。だがそれよりも、眩い陽光 に包まれて、軽やかに現れるあのファーストショット、船上の牛の輝きが、夜の暗闇の中で柵に取り囲まれた牛の存在を、残酷に浮かび上がらせている。また最後の乳搾りのシーンの悲劇は、キング・ルーが木の上から落下し怪我をするからでも、仲買人に全てが露見しクッキーとキング・ルーの行く末が危うくなるからでも無い。「中のミルクが土にこぼれて、置き去りにされたバケツ」そのものが悲劇なのだ。そしてその映像がまた、クッキーとキング・ルーが偶然再会する事になる酒場へと導いた赤いドレスを着た少女の手に慎重に持たれていた「大きなバケツ」の映像、その印象的なシーン全体を喚起する大きな力を持つ事に起因している。この物質を捉える力こそが、ケリー・ライカートを現代映画で最も重要な映画監督にしている。この力は、ケリー・ライカート監督のプロフィールにある「幼いころから写真に興味を持ち始め、捜査官であ る父親の犯罪現場用カメラを使い始める」というあたりに原点があるのだろうか?とにかくこれは稀有な才能なのだ。「ファースト・カウ」の、「窓枠に置かれたスコーン」や「少女が持つ大きなバケツ<中には、 なみなみとビール(白い泡がミルクに見える)>が入っている」「市場に並べたスコーンの下に置かれた木の塊」「中のミルクが土に溢れて、置き去りにされたバケツ」最後にキング・ルーがおもむろに取り出した 「枕」。ちなみに私は、あの最初のスコーンほど美味しそうなスコーンを、これまでの人生で見た事がない。 重要な点は、その後に現れる、はちみつを付け、シナモンを振りかけた、食べれば絶対により美味しいはず の改良進化版のスコーンよりも、ブルーベリーをふんだんに使った「ク・ラ・フ・ティー」よりも、窓枠に不意に置かれた、あの単純素朴なスコーンを、私は食べたいと思わせる事なのだ。最初のスコーンが、後に現れる「初めて市場に並べた八個のスコーン」よりも強度を持つのは、まず窓枠に置かれたスコーンが一つで在った事、「初めて市場に並べた八個のスコーン」が、その下にある台のような「木の塊」の存在に凌駕されている様に見えるからなのだと思う。この様にケリー・ライカート作品においては、物質を捉える各ショットが、文字通りの「物語」となる。映画の「物語」は脚本の中に存在しない。(ここまで書き終えて、かつて「物質を捉える力」について詳細に言及した人を思い出した。ジャン=リュック・ゴダールは「映画史」の「4A 宇宙のコントロール」においてアルフレッド・ヒッチコックの映画が持つ「物質性」に言及して いた。「ワイン瓶」「ライター」「コップに入ったミルク」。ケリー・ライカートとヒッチコックは似ているのか?また更に興味深いことがある。ゴダールは「宇宙のコントロール」で、ヒッチコックは、映画史において二人しかいない「奇跡」を映画化した映画監督だと述べている事だ。もう一人は「奇跡」を撮ったカー ル・Th・ドライヤー。これもまた奇妙な偶然だ。)

「ショーイング・アップ」の、ジョーが見つけた「大きなタイヤ」と、リジーが路上に捨てられたゴミを漁って探し出した「木材」。「ショーイング・アップ」冒頭の一連のシーンは、二人の個性と、二人が制作する作品を、的確に捉えているので少し描写してみたい。車の荷台に乗せた「大きなタイヤ」を下ろしたジョー は、とても器用かつ軽快に「大きなタイヤ」を転がして路地を小走りして行く。カメラは横移動でそんなジョーを右から左へと追いかけて行く。大きな木の下に着いたジョーは、ロープを枝に括り付けて、「大きなタイヤ」をブランコに仕立てて、宙ぶらりんと遊んでいる。一方それを眺めるリジーは、シャワーのお湯がまだ出ない事を告げて修理を急ぐように諭すが、ジョーは時間がないと返して、押し問答となる。ジョーが気付くと、リジーの姿はそこにはない。次のショットで、路地を左から右へと滑走するスケートボードに乗る少年達をカメラは左から右への横移動で捉えるのだが、その少年たちの後景に、うずくまったリジーが現れる。路上に捨てられたゴミから「木材」を探し出しているのだが、あれは彫刻の土台となるのだろうか?この一連のシーンが素晴らしいのは、「ショーイング・アップ」を見る私たちが後に見る事になるリジー の彫刻とその制作風景、ジョーのインスタレーション作品とその制作風景を、すでに見せている事なのだ。 ジョーが軽快に路地を転がした「大きなタイヤ」のブランコとその揺らぎ、ブランコを豪快に制作するジョーは、その後に私たちが見る事になる、ジョーの制作するインスタレーションや、アトリエでのジョーの作業動作にどこか似ている。ブランコで遊ぶジョーを横目に佇むリジーの姿や、スケートボードの軽やか な滑走もどこ吹く風で路上にうずくまり、ガサガサと手を動かすリジーの姿勢が、その後に、アトリエやリビ ングで孤独に制作するリジーの姿や、リジーの作る彫刻たちに、どこかよく似ているのだ。これはまた言い方を変えるならば、否応なく逃れられずに似てしまうものという事もできる。この事が、他の芸術制作を題材にする作品と、「ショーイング・アップ」を決定的に分つものになる。「ショーイング・アップ」には、 芸術制作につきまとう紋切り型の「創造(産み)の苦しみ」などは一切描かれていない。なぜなら作品は既にもう殆ど出来上がっているのだから。ではこの映画を見る私達は、一体何を見ているのだろうか?

「ショーイング・アップ」で芸術についての会話や、芸術論などを戦わせるシーンはほぼ皆無だが、例外的 に創作について触れるシーンがある。それはリジーと、
その母親が、兄ショーンについて語るシーンだ。

母「彼(ショーン)は天才よ。時代の先を行きすぎている。
        信じられないほどクリエイティブ」

リジー「クリエイティブな人は大勢いる」

リジーにとって、いやケリー・ライカートにとって、芸術 / 映画は、創造性とは別の何ものかと考えられている。芸術(映画)は「内へ迷い込んだ、傷ついた鳩」に付き添い介抱する事に、また「窯の中で半分が焼け焦げてしまった自信作の女性像」をいかに受け入れるのかという事により深く関わっている。ここ で、冒頭に掲げたシモーヌ・ヴェイユに触れる事になる。芸術(映画)とは、「注意力」であり、より詳細 に言うならば「注意深い眼差し」によって「ショーイング・アップ」されるものだ。その為には、入り込んでくる対象を受け取る準備が必要なのだと、ヴェイユは説く。しかし、注意力を傾けるのは極めて稀であり、極めて難しい、それはほぼ奇跡であると、ヴェイユは強く戒めてもいる。何故、極めて難しいのだろうか?「傷ついた鳩」と「窯の中で半分が焼け焦げた自信作の女性像」は、リジーの計画や期待の「外」から、 不意に到来する。それはリジーの頭に思い描かれたイメージを、木っ端微塵に粉砕する。「傷ついた鳩」 は、制作に充てるための貴重な時間を奪い取り、「窯の中で半分が焼け焦げた自信作の女性像」はリジーの自信と期待を奪い取り、またこれまで上手く焼けていた他の彫刻たちの調和を乱す侵入者(アウトサイダー)となるだろう。その事にリジーが直面する素晴らしいシーンがある。このシーンは「窯の中で半分が焼け焦げた自信作の女性像」を他の彫刻たちと一緒に並べて見ること(比較すること)と、正気を失った様 に思える兄の様子を尋ねる為に何度も執拗に母に電話することと、隣で楽しくパーティーをするジョー(フレーム外の話し声や音楽の音。ジョーの運転する車の音やカーオーディオから流れる音楽は映画全編でリジーの周囲の無音と対照をなす)に、「リジーの家の駐車スペースに勝手に車を停めるな」「鳩の下に敷か れた新聞紙をちゃんと交換する様に」、そして「いいかげんさっさと給湯器を直せ」「人間性を疑う」という内容の電話をする事が、同時並行(見事なショット連鎖と大胆な編集)で展開するのだが、やり場のない「窯の中で半分が焼け焦げた自信作の女性像」への怒り、それを受け取れない自分への怒りが、リジーの母親と ジョーへの怒りの言葉となって表に現れる。(しかし両者は電話に出ず、リジーの怒りは宙吊りにされる) このシーンの偉大さは、「窯の中で半分が焼け焦げた自信作の女性像」ともう一体の女性像の背後から、二 体の彫刻の真ん中に正対して立つリジーを撮影する事によって、ショット内で、リジーが一体の彫刻作品の様に見える事なのだ。このショットはまた、リジーの母親とジョーへ向けられた言葉を、彫刻たちが「聞いている」ように見えるという素晴らしい効果を生み出している。実はこれによく似たシーンが「ファースト・カウ」にも存在している。それは最後の乳搾り、キング・ルーが高い木の上から落下して全てが露見し終わるシーンだ。キング・ルーが地面に落下する時に、映画で私たちが見るのは、落下するキング・ルーでも、そばに駈け寄るクッキーでもなく、暗闇に光る牛の大きな瞳と耳であり、このショットによって牛はフレーム外で起こるキング・ルーとクッキーの悲劇を見聞きする事になる。この二つのシーンでは、映画の主人公と思われる人間たちが、見る・聞く存在から、見られる・聞かれる存在になるという事なのだ。(この事は「ショーイング・アップ」の終わり近くジョーのセリフにも現れる。「(鳩が)あなた(リジー)の作品を見たいって。あなたが作っている姿をずっと見てたから」) さらにこの二つの映画に共通するより重要な点は、クッキーが「裸で飢えたキング・ルー」や「牛」に、リ ジーとジョーが「鳩」や「彫刻」に「語りかける」という事だろう。シモーヌ・ヴェイユは「神への愛のた めに学業を善用することについての省察」というテキストで、「注意力」と「隣人への愛」について次のように説いている。

隣人への愛(実体としての注意力)が充溢しているとは、もっとも痛々しい傷でほぼ麻痺した人に 「お苦しいのですか?」と問うことができるということだけである

ー「神への愛のために学業を善用することについての省察」ー

クッキーは「飢えた、裸のキング・ルー」や「牛」に「お苦しいのですか?」と問い、リジーは「鳩」に 「お苦しいのですか?」と問いかけて動物病院へと連れて行く事になる。そしてリジーは最後に「傷ついた鳩」と同じように、箱に入れられた包帯でぐるぐる巻きにされた「窯の中で半分が焼け焦げた女性」を腕に 抱き抱えて「お苦しいのですか?」と問いかけ、ついに「外」から到来するものを受け取る事になる。

3、オープニング・レセプションと、葬儀

「ショーイング・アップ」のラストシーンが、ドライヤーの「奇跡」のラストシーンを思い起こさせたと、 本論考の冒頭で述べた。ただこれは既に「奇跡」を見た事があり、今回「ショーイング・アップ」を見た人 ならば「家から失踪し行方不明だった兄ショーンが、リジーの個展のオープニング・レセプションへの不意 の現れ方と、その身に纏う雰囲気、これは「奇跡」のヨハンネスなのでは?」と思う人がいても全く不思議 ではない。端的によく似ているからだ。しかし問題は、どうして「奇跡」なんだろうか?という事である。初見の際には全く理解できなかったが、色々と妄想や推理を巡らすうちに「こういうことか?」という朧げな理解が浮かんできたので、とりあえず私の推理を述べてみる。

まず世間一般で流布するカール・Th・ドライヤーとその映画作品へのイメージ像を粉砕する事から始めよう。 何故かは知らないのだが、ドライヤーは「聖なる映画」「聖なる映画監督」と言われているそうなのだ。だがドライヤーの映画を見れば、「聖なる映画」「聖なる映画監督」というイメージ程、ドライヤーか ら程遠いものはないとすぐに理解できる。「吸血鬼」を思い出そう。題材が吸血鬼だから「聖なる映画」から程遠いと言うのではない。映画の最後の粉挽き小屋、頭上から降る小麦粉が、どんどん人間の周りに降り積もり、最後には呼吸が出来なくなり窒息死するという・・・。こんな事を考え、撮影する人が「聖なる映画監督」な訳がないだろう・・・。ここで「奇跡」について語る二人の先達の言葉を引用する。一人はジャン=マリー・ストローブ、もう一人は映画批評家の蓮實重彦である。当然ながら両者の語る「奇跡」は、「聖なる映画」「聖なる映画監督ドライヤー」と云う誤った解釈から無縁である。 まずはストローブの「カール・ドライヤーについて」から引用する。

「奇跡」の中で父親は、つぎのように述べる。
「彼女(インガ)は死んだ。もうここにはいないんだ。彼女は天国にいるんだ」
 
 そして息子(ミケル)はこう答える。
「うん、でも僕は彼女の身体も好きだったんだよ」

そして蓮實重彦の「映画の神話学」(1979年)のあとがきから引用する。

ドライヤーの「奇跡」ほど、触覚的な映画は存在しない。

ストローブと蓮實は共に「奇跡」という映画を、身体に関わる触覚的な映画としている。私にとっての「奇跡」とは、固く握り締められた指の硬直がある力によって解かれて微かに動きはじめる映画という事くらいしか、この論考では語ることができない。ここで「ショーイング・アップ」に話を移せば、この映画も身体に関わる触覚的な映画と捉えて間違いない。リジーが映画の冒頭から映画の最後まで、隙あれば呪文の様に 執拗に繰り返す「お湯が出ない。だからシャワーを浴びれない、私はシャワーを浴びたい」と言う言葉は、 何よりも身体と触覚を喚起させる為なのだろう。(また欠乏についての言葉でもある。ジョーは「個展オープニングにカタログが間に合わない」ショーンの家のテレビアンテナは「チャンネル4を受信できない」) リジーとジョーの作品を制作する姿や、ショーンが地中深くまで穴を掘る姿、美術学校の生徒達の制作する姿も全てが身体に関わる触覚的なものだ。また「鳩」は骨折してしまい、「自信作の女性像」は火傷してしまったのだから、勿論これらも傷や痛みという身体に関わる触覚的な要素である。

ここで「奇跡」の略筋を簡単に説明しよう。ボーオン家はキリスト教グルントヴィー派の熱心な信徒である。この農場で老モーテンを筆頭に、長男のミケルと嫁のインガと二人の娘、次男ヨハンネス、三男のアナ スが暮らしている。ヨハンネスは自らをキリストであると言い狂気の淵にいる。アナスは仕立て屋ペーター の娘アンナに恋心を抱いているが、仕立て屋ペーターの一家はグルントヴィー派と対立する内的使命派の熱 心な信者のため、モーテンと仕立て屋ペーターは激しい口論となり、アナスとアンネの結婚は拒絶されてしまう。また三人目の子供を宿していたインガは出産を前に容態が急変し、赤ん坊は死産する。その後、あとを追うようにインガも息を引き取ってしまう。更に次男のヨハンネスも忽然と姿を消して消息不明となる。 そしてインガの葬儀の日。仕立て屋ペーターは「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という言葉を思い出し、インガの葬儀に参列する事、そしてアンナとアナスの結婚を受け入れる。また失踪していたヨハンネスも突然葬儀に姿を現す。ヨハンネスは、ただ一人キリストの奇跡を信じたインガの娘マーンの手を取り、棺に眠るインガに起きるように声をかけると、インガは静かに息を吹き返す。

「ショーイング・アップ」のリジーの個展のオープニング・レセプションと、「奇跡」のインガの葬儀。 この二つには関係があるどころか、正反対・両極端の様にも思える。まず「ショーイング・アップ」のリジーの個展を見に訪れた人達を思い出して行こう。父が、実家にズカズカと入り込み我が物顔で居座る謎のカッ プル二人と共に現れる。謎のカップルは、作品よりも用意されたワインに目を奪われる。父はリジーの彫刻 を見て周り、いくつか言葉を残すが、やがて父の目は若い女性に向かい、最後にはナンパに勤しむ。 母はリジーの作品を素晴らしいとは言うものの、やがて父と小競り合いをし始める。ショーンは、彫刻には一瞥もせず皿に山盛りにされたチーズに直進してひたすら食べ続ける。そこに美術学校にゲスト講師として来ていたアート界の「時の人」マーリンが、ニューヨークのギャラリストを連れて訪れる。そしてこの三人は、 一見至極当たり前で取り止めのない会話をする。
しかしこのやりとりがとても興味深い。

リジー 「自信作だった彫刻が黒く焼け焦げてしまったの」
ギャラリスト「そう、どれも素晴らしく思えるけど」
マーリン「ここまできたら自信を持って」

この会話には、二つの自信(信じること)があらわれる。ここで、リジーの言う自信(があったもの)は、 「そうなるはずだった理想のイメージ」だ。そして時の人が言うもう一つの自信は「現にあるもの」を信じろという事だ。またギャラリストの「そう、どれも素晴らしく思えるけど」という言葉は、文字通りに捉えることもできるが、これは言い方を変えれば、「私には、どれがリジーの自信作なのか分からない。他の彫刻との違いが分からない」という事だ。私はここで起こる事と、ドライヤーの「奇跡」のアナスとアンネの結婚を巡っ て起きる事は似ている様に思う。モーテンと仕立て屋ペーターは、「そうなるはずだった理想のイメージ」 を持っている。ミケルとインガは「結婚は素晴らしく思えるから肯定する。それにそもそも宗派の違いが分からない」と思っている。そして「奇跡」の最後では、「現にあるもの」を肯定するに至る。 「現にあるもの」とは、アナスとアンネの間に存在する「愛」だ。われわれの願い求めているもの。

最後に会った時に激しく口論したジョーが、「傷ついた鳩」を抱えてギャラリーを訪れる。 「<鳩が>作品を見たいって。あなたが作っている姿をずっと見てたから」とジョーはリジーに伝える。 ジョーは入口のショーウインドに鳩を入れた箱を置いて、リジーの彫刻を見て回る。鳩の入った箱の側に は、絵本(世界の始まり)を読む二人の少女がいて、箱の中の鳩に「注意深い眼差し」を向けている。少女たちは、おもむろにぐるぐる巻きにされた鳩の包帯を解いてゆく。 すると突然、鳩は羽ばたき、ギャラリーの中を飛び回る。 天井に阻まれて行き場なく地面にうずくまる鳩にショーンがおもむろに歩み寄り、鳩を手に抱きかかえてギャラリーの外へと歩む。 カメラは、手前に並ぶリジーの彫刻たちの背後を歩むショーンを、右から左へ横移動で追いかけて行く。そしてショーンは、鳩を空へと放つ。

「鳩」が大空へ飛び立ったことが、「奇跡」における復活 / 再生なのだろうか?
一見するとそう思われるのだが、 私には、どこか腑に落ちないところがある。
そこで、一つの女性像の前に立ち止まり、とても不思議な姿勢 で女性像に「注意深い眼差し」を向けるジョーが、ふいにつぶやく言葉を思い出した。「これ私だ」 。
「奇跡」の葬儀のシーンを、不動の存在が動き出すものと捉えるならば、「ショーイング・アップ」のギャラリー室内に在る不動の存在とは何だろうか?
それは「窯の中で半分が焼け焦げた自信作の女性像」や「ジョーによく似た女性像」など含めた、リジーが制作したあの少し奇妙な彫刻たち。

鳩と共に、ギャラリーの外に抜け出したリジーとジョーを、
その背後から捉えた最後のロングショット。
その小さくなって行く後ろ姿が、私には不思議と、
リジーによく似た、ジョーによく似た、歩く彫刻の様に見える。

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