見出し画像

吉祥寺に縁のある画家との出会い

あなたは「野田九浦(のだ・きゅうほ)」という日本画家のことを聞いたことがありますか?

わたしは最近までこの方のことを存じ上げなかったのですが、徒歩圏内の武蔵野市立吉祥寺美術館で彼の作品の展覧会、
「野田九浦—<自然>なることー」
が開催され、特別公演も行われると聞いて4月17日(日)に散歩がてら行って参りました。

宮内庁三の丸尚蔵館学芸員の田中順一郎さんの講演はわたしのような一般人にもわかりやすく、先に伺ってから作品を見たおかげでしっかり楽しむことができました。

野田九浦(1879-1971年)は10代半ばで当時既に活躍していた日本画家の寺崎廣業に入門したのですが二人が出会ったのは東京ではなく、函館でした。

というのも、九浦の父が函館で税関の仕事をしていたため、一家は函館で暮らしていたのです。

講演をしてくださった田中さんによると
「函館で九浦が寺崎廣業に出会っていなければ彼は地方の画家で終わっていたかもしれない」
とのこと。

やはり人との出会いが人生を変えることもあるのですよね。

彼は師匠との出会いの後も黒田清輝に絵を学んだり、正岡子規に俳句を学んだり。

彼は師匠からの影響も強く受けていたのですが、正岡子規の自然主義芸術論にも大きな影響を受けたといいます。

ちなみに、今回の展覧会のポスターやちらしには正岡子規を描いた「獺祭書屋」が使用されています。

そして、1907年の第一回文展では「辻説法」で二等をとりますが、一等が「該当なし」だったので実質的な一等。

第一回の文展は今よりもはるかに権威があり、実質的な一等賞を取ったことによって野田九浦は全国に知られるようになります。

でも、田中さんは
「この作品が彼のデビュー作にして出世作、そして代表作と言われたことは画家としての彼に取ってはどうだったのか」
とも話しておられました。

その後、九浦は縁あって東京から大阪に移転、大阪朝日新聞者に入社し、夏目漱石の新聞連載小説「坑夫」の挿絵を描きつつ、大阪画壇の発展にも尽くしたのだとか。

1917年に文展で特選を取った後は東京に戻り、関東大震災後の1924年頃に吉祥寺に移り住み、1971年11月に91歳の天寿を全うするまで50年近くを吉祥寺で過ごしました。

(つまり、昨年は彼の没後50年の記念の年だったのです)

彼の屋敷跡は、現在も吉祥寺東コミュニティセンター「九浦の家」として地域のコミュニティ活動や情報発信の拠点となっているとのこと。

わたしが知らなかっただけで、野田九浦はずいぶん吉祥寺と縁の深い画家だったのです。

彼の作品の中心的な主題は歴史上の人物だったといいますが、敬愛する師匠の死後に描いた「廣業先生」、
姪の姿を描いた「修道女」や妻と長男を亡くした後に可愛がっていた愛猫との自画像「K氏愛猫」
など、対象への思いが感じられる人物画もとても魅力的でした。

そして、瑞々しい色合いや伸びやかな曲線がとても自由に、斬新に見えました。

でも、それも先に田中さんのお話を伺っていたために一層味わい深く感じられたのだと思います。

今後も機会があるときにはギャラリートークなどを聞いてから展覧会を楽しみたいと思いました。

なお、唯一撮影が許可されていた「相撲」以外は展覧会ちらしとチケットの写真です。

今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

*今回、初めて美術館・博物館共通入場券&割引券「東京ミュージアムぐるっとパス」を使用してみました。

これからも利用するのが楽しみです^ - ^

カフェで書き物をすることが多いので、いただいたサポートはありがたく美味しいお茶代や資料の書籍代に使わせていただきます。応援していただけると大変嬉しいです。