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自分の意志を持って生きた、101年の人生

前回に続き、アメリカの国民的画家、
グランマ・モーゼスのお話です。

展覧会に行った後、彼女の人生に興味を持ち、
彼女の自伝、
「モーゼスおばあさんの絵の世界
田園生活100年の自伝」
などの本を読んでみました。

(この写真の自伝の表紙に使われているのは
「メープルシュガーの取り入れ」という
1939年の作品です)

展覧会の展示でも
グランマ・モーゼスの生涯を
辿ることはできたのですが、
自伝を読むと、びっくりすることが沢山!

例えば、
ルーブルの近代美術館が
米国人画家の作品を最初に買い上げたのは、
彼女の作品だったこと。

1961年にはニューヨーク州知事が
彼女の誕生日を州の
「グランマ・モーゼスの日」と定めたこと。

89歳の時には、プレスクラブの賞を受賞して
ホワイト・ハウスへ招かれ、
トルーマン大統領と会見。

アイゼンハワー大統領とも文通し、
彼のゲティスバーグの邸宅を描いたことも。
ジャクリーヌ・ケネディが
ホワイトハウス入りした時には、
モーゼスおばあさんの作品をまず所望したこと。
・・・などなど。

でも、これは70代で画家になってからのこと。

それまでの生涯でも、
様々なことがあったのです。

グランマ・モーゼスは
1860年9月、ワシントン郡のある農場で、
アンナ・メアリ・ロバートソンとして
スコットランドとアイルランドの血を引いて
誕生。

この1860年は、
米国大統領選挙で奴隷制を争点として
リンカーンが大統領になった年。

この頃ミズーリ州に住んでいた叔母は
夫を熱病で亡くし、
南北戦争が始まって南軍が家々に火を放つ中、
3人の子供を貼り骨で膨らませたスカートの中や
馬車の足元に隠して馬車で逃げ、
列車に乗りかえて実家に戻ってきたのだとか。

映画「風と共に去りぬ」で
スカーレット・オハラが
メラニーを連れて燃え盛る建物の中を
馬車で逃げる有名な場面がありますが、
まさにそのような経験をしていたのです。

そんな時代ではありましたが、
アンナ・メアリは10人兄弟の中で
穏やかな子供時代を過ごします。

彼女のお母さんの時代には
糸を紡いで織ることも家庭の仕事で、
女の子は教育を受けずに
小さい頃から家の仕事を手伝っていましたが、
アンナ・メアリの子供時代には
女の子も学校に行くようになっていました。

それでも家の仕事で学校に行かない子も
多かったようです。

アンナ・メアリは12歳になると、
自分の意思で家を出て自分で稼ぐために
奉公に出ることを決めます。

親に無理強いされたわけではなく、
お父さんは「学校を続けるべき」と反対し、
お母さんも許しはしても
「すぐに嫌になって帰ってくるだろう」
と思っていたようですが、
彼女は結婚するまで
いくつかの家庭を渡り歩きつつ、
住み込みの仕事を続けるのです。

「料理や家事、物事の意味について考えたり
世間を知るという点からも、
良い勉強だったと思っています」
と自伝に書き残していますが、
12歳ですでに自分の人生を
自分で決めていたなんて、
子供の頃から強い意志を持っていたのですね。

アンナ・メアリが幸運だったのは、
奉公先に恵まれていたこと。

最初に奉公に行った先の夫婦は
奉公人である彼女に
娘のように接してくれたのだとか。

彼女の早逝した兄弟の中には
「奉公先の環境があまり良くなかったために
病気になってしまったのでは?」
という人もいたので、
アンナ・メアリは、やはり幸運だったのです。

(でも、この本を読んでいても
彼女自身が愛情深い人だったことを感じるので、
だからこそ愛されたのでしょうね)

1886年、彼女は当時の奉公先で
夫となるトーマス・モーゼスと出会い、
翌年の秋には結婚することを決意。

今であれば結婚を決めてから実際の結婚までは
色々と準備があるものだと思いますが、
結婚を決めてからの南部に移転して
新婚生活を始めるまでの展開は猛スピード。

当時のことですから、
同じ国の南部といっても、
一旦行ってしまえば
次にいつまた家族に会えるのかもわからず、
半分外国に行くようなもの。

「父は寂しそうでした」というのも、
よくわかる気がします。

アンナ・メアリ・ロバートソン・モーゼス
となった彼女の人生、
短くまとめきれなかったので、
続きはまた次回に。

今回も最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。

*井の頭公園近辺の桜は
ピークを過ぎましたが、
場所によってはまだ健気に咲いています。


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