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花明かり(14)

 窓を叩く雨の音で目が覚めた。壁にかかった時計を見た。昼の二時を過ぎていた。
 僕は智子が出がけに敷いていってくれたマットレスの上で起き上がって伸びをした。母が使っているものだと言って智子が出してくれたタオルケットもたたんで、端の方へ寄せ、枕を載せた。
 洗面台に行き、今朝僕のために智子が出してくれた歯ブラシを手に取った。智子の歯ブラシも柄の色が同じ白とオレンジのツートンだったが、新品の毛先は容易に見分けがついた。チューブのペーストを載せ、口に含むと、今朝磨いたときの湿り気がまだ残っているのが感じられた。鏡に映った自分の顔の顎鬚を見ながら、喉の奥からミントの香りを嗅いだ。
 キッチンに戻ると、智子がテーブルの上に残していったルーズリーフの書き置きがあった。
『冷蔵庫にあるもの、適当にどうぞ』
 流麗なサインペンの文字に、ひつじの絵が添えられていた。
『用事を済ませたら電話しますね 二時以降になると思います わたしからだというしるしに三回コールを二度鳴らします その十五秒あとに三度目が鳴ってから出てください わたしが話すまで黙っててくださいね』
 冷蔵庫を開けた。智子が買ってきてくれたフード・パックに入ったサンドイッチとビールを取り出した。
 プルタブを外し、缶のまま飲んだ。口の中に残っていた歯磨き粉の味がしなくなるまで何口か飲んだあと、一口サイズの正方形のサンドイッチを、順番につまんで食べた。二本目のビールも開けてから、薄切りのハムと、よく冷えたレタスとトマトをよく味わって食べきった。
 レースのカーテンが引かれた窓の向こうは、雨のせいで暗かった。部屋の照明スイッチを探して、電灯を点けた。クロード・モネの絵の女がさしている日傘のようなペンダントの光が、部屋全体を昼光色で明るく照らした。
 僕は二つ目の缶を飲みほしてしまうと、空いた二本の缶にシンクの水を順番に注いですすいだ。中の水を切ってから、調理台の奥の棚に置いてあった、今朝寝る前に僕が飲んで智子が洗った空き缶の隣に並べた。
 メロンパンの袋も開けて、その半分を食べたあと、袋の口を折って敷き、テーブルのわきに置いた。
 雨の音にかぶさるように、どこか近くの部屋で鳴っているステレオの低音が聞こえた。何の曲かまではわからなかった。
 部屋を出るまえに、ノートは机の上に出しておきます、と智子が言っていたのを思い出した。
 窓際の机まで立っていった。椅子を引いて腰を下ろすと、智子のノートを開いてみた。
 横向きにしたノートには、縦書きの文字が並んでいる。上のページには、大きめの楷書でまとまり毎の訓読文と書き下し文が書かれている。丁寧な文字が、事前に授業に出るまえに書いたものであることを思わせた。下のページは、講義の板書と細かなメモが、上のページに比べるとやや崩れた感じの、とはいえ決して乱雑ではない行書で、びっしりと埋められていた。赤いボールペンと、ピンクと黄色のマーカーが適切に使い分けられ、成績にAを並べた優等生の見本のような完璧なノートだった。僕はため息をついて、それにしばらく見とれた。
  
 孟子 もうし りょう惠王 けいおう まみゆ。
 おう しょう の上に立ち、
 鴻鴈麋鹿 こうがんびろくを顧みて曰く、
 「賢者も亦此またこれ を楽しむか」と。
 孟子こた えて曰く、
 「賢者にして後に これを楽しみ、
 賢ならざる者は此れ有りと いえども、
 楽しまざる也。……
 
 電話が鳴った。智子が書き置きに記していたとおりに、三回コールが二度繰り返された。そのあとしばらく間があいてから、三度目が鳴った。僕はクリーム色のプッシュホンの受話器を手に取り、耳に当てた。
 受話器の向こうからは、反応がなかった。町の喧騒に、歩行者の横断信号のカッコウの音がまじって聞こえた。しばらく待っていたが、しびれを切らしていた僕は、あやうく咳ばらいをするところだった。
 三十秒ほど、無言の状態が続いた。そして音もなく、電話が切れた。僕は受話器を置いた。
 再度、呼び出しのベルが鳴った。瞬間に僕は受話器をあげると、耳に当てた。
「もしもし」と智子の声がした。
「遅くなってごめんなさい」
「きみか」と僕は言った。
「ごめんなさい」と智子は言った。
「三度目をかけたら、ツーツーの話し中。そのあとも、何度かかけたんだけど、やっぱりツーツー」
 僕はちょっと考えてから、
「この電話の直前に、三度目のコールを取ったんだ」
と言った。
「無言だった」
「無言って?」
「何も聞こえなかった」
と僕は言った。
「歩行者の信号機の音が聞こえてたから、どこか外からかけてるみたいだった。あれは、きみじゃなかったんだな?」
「わたしじゃないわ」
 しばらく間があった。受話器の向こうで、智子が言葉を失ってしまった気配が感じられた。
 僕はまた少し考えてから、
「つまり、きみが二度めの三回コールを切った直後に、だれかほかの人がたまたま割りこんでかけてきた。そしてその電話に、おれが出てしまった」
「先輩」と智子がしぼりだすような声で言った。
「部屋から出てって。鍵の置き場所、わかるかな。わからなかったら、かけなくてもいいよ、とにかくはやく」
「何そんなに慌ててるんだ? おどかすなよ」
 そう言いながらも、僕はその実智子の声に、ただならぬ気配を感じていた。
「お願いだから。説明してる時間はないの」
「鍵はE.T.のホルダーだろ」と僕は言った。
「ああ、それです」
 ビーという音がした。
「どうしよう、カードが切れてしまう」
「今、どこにいるんだ?」
「電話ボックス」
「じゃなくてさ。どこからかけてるの?」
「これから電車に乗ります……困ったな、小銭がもうない……三時には着けます。わけは会ってから話すから、先輩、駅まで迎えに来て。必ず来て、南側の改札を出たところの」
 プツッ、と鳴って、電話が切れた。


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