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何者かになりたい私。『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』河野啓

栗城史多さんについてはあまりわかっていなかった。有名な登山家だな、ぐらいだった。たたかれているかどうかもわからなかった。ただエベレスト登頂に繰り返し臨んでいる、ぐらいの認識しかなかった。

ストイックさをイメージする登山家とはあまりに違った。あれよあれよと山へ登っていく。

あれ?そんなもので登れちゃうの?と思ってしまうし、実際、周りから彼をみていた人はそんな行程に驚いたことだろう。いきなり、マッキンリーに登ってしまい、各大陸の最高峰へと上り詰めていく。「単独無酸素7大陸最高峰登頂」というスローガンを掲げて、数多くのスポンサーを集めていく。そして運命のエベレストへと挑んでいく。

メディア業界の人が多く勧めていた。

確かにこういったこういったところはあるよな、と共感できるところが多かった。著者はとても敏腕なテレビマンだと思う。だから、あまり自分に引き付けて語るところでもないのだが。

純粋な気持ちに惹かれて取材を始めた著者だが、少しずつ、彼の中にある根本の欲求への違和感を覚え出す。

本当に山に登りたかったのか?

思えば、登山家に対して、美学を求めている。商業登山に眉を顰める気持ちもどうしてもあった。一方で、イモトアヤコさんの挑戦には感動するところもある。

山に惹きつけられる、というところはある。山に賭けた思いは確かに彼に存在したのだろう。

著者は、なぜ彼を追い続けたのか?応援者、そして観察者として取材を続けながら自問自答する。

自身の苦い思い出に照らし合わせもする。

メディアは、代弁者である。「誰か」を取り上げて、「誰か」のストーリーをつまびらかにして世に問いかける。

だが、それは、同時に「神輿を担ぐ」ことにも通じる。注目を集めた人物に殺到し、さまざまな側面から取り上げようと、周りで騒ぎ続ける。そして、すっと、潮のように引いていく。タイミングといい、引き際といい、逆に見事だなと思わさせられる。

著者自身もさまざまな付き合いの果てに、栗城さんかは離れた存在だった。葛藤はあったし、著者から語られるエピソードには確かに眉をひそめさせられる言動はある。

栗城さんは、実にシンプルに「何者かになりたかったんだろうな」と思わさせられた。どこまでも行き着く先がなく、挑戦を繰り返す。どう見られるかを意識した。自身も自覚していたのだろう。行き着く先が延々と見えないと。

どういう受け止められ方をするだろうな、と考えさせられた。この本は、なんだろう?栗城さんという登山家が生まれた背景はなんだったのだろう?

お笑い芸人を目指した彼

ユマールの使い方も知らずにマッキンリーに挑んだ彼

読み終えてみて、こうして感想を書き出して、最初のページからパラパラとめくってみた。

> 私が栗城さんの取材を始めた理由は、登山の過程を詳細にカメラで撮る「新しさ」と、「マグロが理想」など彼の言葉の意外性に惹かれたからだが、もう一つ、「この人なら、『登山家のすごさ』を私のような素人にもわかりやすく伝えてくれるのではないか?」と期待したからでもあった。
河野啓. デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.592-595). Kindle 版.

そうそんなシンプルな理由だった。彼だって、最初は単純な動機だったはずだ。そして成功し、称賛を浴びた。

何者でもない自分が何者かになれた瞬間。

抜け出せないだろうな。

登山家たちの厳しい言葉が、締め付けられる。

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