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「人間性の衝動」で資本主義をハックする『ビジネスの未来』山口周さん

ビジネスはその歴史的使命をすでに終えているのではないか?」

この指摘から始まる本書は、著者の知識の蓄えを縦横無尽に組み合わせて、「経済成長」によって「物質的貧困を社会からなくす」という使命を達成した世界で、新たに「祝祭の高原」へと向かうことを、提示していく。

主張そのものにはわくわくとした。

特に、資本主義の文脈にヒューマニティを埋め込む。人間性に根ざした衝動に基づく労働や消費。仕事というアートの実現といった点は共感できるところが多かった。

手段主義的な思考・行動様式を「インストルメンタリー」、一方で高原社会で目指す、自己充足的な思考は「コンサマトリー」と分類し、経済合理性では達成しえなかった、社会課題の解決に、真に人間の衝動を通して向き合うことを掲げている。

確かに、現在の課題というのは合理性を超えたところに存在していて、「市場経済」にとらわれている限り、達成しえないものが横たわっている。実際、私たちは人類史上かつてない繁栄をすでに達成しえている。一方で存在する格差というひずみには、十分に向き合えていない。それは結局、現在の課題に立ち向かうには、「経済成長」が解ではないのではないか?と考えさせられた。

「便利で快適な世界」を「生きるに値する世界」へと変えていく。

物質的な豊かさを達成した私たちが、今後求められるのは「高原社会」という発想である。

ここでキーワードとなるのは人間性である。それは具体的には米国型の市場原理主義社会ではなく、北欧型の社会民主主義社会を目指すという方向性である。

その方向性自体に目新しさはない。では、何がよかったか?というと、やっぱり「高原社会」と「コンサマトリー」という言葉だと思う。

著者は、経済成長の限界については繰り返し述べている。特に、この低成長は自体は、もはや解消しうるものではないというところが、見えてくる。これだけインターネットが発展したにもかかわらず、成長率はそこまで劇的にあがっていない。衰退する企業が衰退し、繁栄する企業が、大いに繁栄した。ようは、全体のパイが増えずに転換していっただけだ。

パイの分配の問題が起きたとき、市場原理主義に囚われていると、いっそうの成長を目指すだけで分配されていないところには目がいかない。いわゆるトリクルダウン的な発想にいくが、そもそも我々は「成長という幻想」にとらわれているのではないか?

そのような状態では「経済合理性限界曲線の内側」の問題しか解決できない。「市場が解決できる問題」は、すでに一定、解決しえている。

だから、私たちは価値観を転換するところに来ている。それは、「便利さで快適」というところから「生きるに値する」という価値観への転換だ。そういった新たなモチベーションを燃やさない限り、「経済合理性限界曲線」の「外側」にある問題は解決ができない、というのが著者の考えだ。

私は、まさにいま「高原」へといたりつつある社会において、このような「人間的衝動」に根ざした欲求の充足こそが、経済と人間性、エコノミーとヒューマニティの両立を可能にする、唯一の道すじではないかと考えています。

後半には、このような社会を実現するために必要なことを語っていく。

おそらく、著者の考えはとても理想的に見える。そんなことは現実では起こりえないといった言葉が次々と浮かんできそうだった。

やりたいことを、人間性の衝動といった不確かなものにまかせて、本当に、子供の貧困を救えるのか?

だが、その問いは自分に跳ね返ってくる。この「貧困」を救うのは誰か?となったとき、「社会のシステム」である場合、そのシステムは今の時点でも変容の兆しはない。構成している我々自身が変化していないために、変わる余地がない。

ちなみに著者はこの問いには明確には回答しえない。この解決にも「衝動」というところに根差す。ソーシャルイノベーションの創出によって、貧困に立ち向かうためには、そもそもとして、経済的な補償が必要であるため、「ユニバーサルベーシックインカム」の導入を訴える。そのための増税などへの具体策にもいくが、実現可能性は乏しく見える。

だが、著者が訴えたいのは、そういった仕組みによる社会変容の前に、まず、個々人の価値観の変容だと思う。

高原社会での労働は、このようなインストルメンタルなものではなく、労働そのものが喜びや生きがいとして回収される、労働と報酬が一体化したコンサマトリーなものへと転換します。そのような社会において仕事の結果として得られる報酬の位置づけは大きく異なることになるでしょう。

この著者の言葉は、どう裏付けられていくだろうか。

読みながら思ったのは、昨年出た哲学者・近内悠太さんの『世界は贈与でできている』であり、斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』。または、宇沢弘文さんの社会的共通資本の考えだったりした。

著者独自の言葉というのは、実は少ないことに気づかさせられる。これは、多くは、著者自身の読書による思索の結果だ。そういった知識を複合させて新たなビジョンを描くという在り方に、憧れる。

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