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「リアルやファンタジーやドキュメンタリーが自分にどのように作用するかを考えている」


先日、水萌さんという方が発行されている
『日常は、記録されない映画のようだ。』という作品のフリーペーパーを、とあるお店で手に入れまして。

「きのうと2月」「きのうと3月」「きのうと4月」

素敵なペーパーたち



そのうちの「きのうの3月」を読んでいると、
3月4日の日記にこのような文章が記されていました。


毎日の仕事がまるでドキュメンタリー映画のようなので、すっかりドキュメンタリー映画を観たい欲が湧かない。
20代の頃、ドキュメンタリー映画を観たくて仕方がなかった。
もっともっと深く、現実の、ど真ん中を知りたかった。
きっとあの頃の私は、ファンタジーを生きていたんだと思う。

水萌「きのうの3月」より



こちらの日記を読んで、
目から鱗!な気分を味わいました。


どういうことかというと。

私は、はっきり言ってしまうとドキュメンタリーが苦手です。昔から。
ノンフィクションは、必要で大事な場合は勿論見るし読むけれど、日常的に積極的に取り入れたいものではない。という感覚です。
その気後れ感は、「自分がエンタメ性のあるフィクション好きだから」という性質から来ているのだと思ってましたが。

水萌さんの日記を拝読してみて、
私がドキュメンタリーが苦手で何なら若干怖いとすら感じているのは、「どうしようもない現実をいま生きているから」という認識が心の底に根強く内在しているためなのでは…?
ということに思い至りました。

エンタメと言ってもジャンルや性格は様々だと思いますが、私が「物語」に求めていることの一角に、「ハッピーエンドや王道な展開」というものがあります。
当然ながら触れるもの全てに幸せな結末を求めるわけではないし、基本的にはどんな物語でも楽しむことができます。
でも、それでも、「物語の中でぐらい、ストーリーも登場人物も上手くいってほしいし、そんなお話がたくさん見れたら嬉しい」という思いはとてもつよいです。 (推理小説としての物語は、またちょっと「幸せ」の見解が難しいところですが。絶対に事件ありきだし…笑)

そんな自分の「物語の中でくらい!」というある意味ファンタジーなフィクションを望む欲は、
「現実世界というのは重すぎて上手くいくことなどないのが前提だから、これ以上重いものは見れない」という気持ちの発露から来ているのか……  ということに気づきました。


うーん
よく考えてみれば、そうでしかないですよね。
自分でも漠然とした感覚だったことが、水萌さんによって綺麗に言語化されていて、
「……そういうことかあ!!!なるほど…!!」という目が醒めたような感覚、まさに目から鱗。

言い換えれば、ファンタジーを望むということは、人間界の重さを知ってリアルに生きていることの証明とも言えるんですかね〜…いやどうだろ。
まあ あくまで私自身の話で言えば、なのですが。


そんなわけで、たまに見かける
「現実はそんなに甘くない」
「こんなにうまくいくわけない」
といった物語への感想やレビューには、
「ちが、ちがうんだよ…フィクションだから…フィクションだからこそ、こういうことが出来て良いんだよぉぉ……!!!」と、少々反意を唱えたいたぐいの人間なのであります。笑
物語は、空想だから良いのだ!を地で行くエンタメ好きですよろしくお願いします。


そんな風に、他者の想いや作品に触れることで、予期せぬ自分に出会うこともある。
言葉や文字というのは、私の人生の機微に必要なものだなあと、あらためて思うなどしました。


水萌さんの
『日常は、記録されない映画のようだ。』

素敵な作品に感謝をこめて。



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