専業主婦がシングルマザーになった-その後① 最初の一歩を踏み出すまで
自由を求めた中学時代
みんなと同じ、みんなと同じ制服、みんなと同じ行動、そんな「みんなと同じ」があまり好きじゃなかった中学生時代。
学校の校則も無意味に思え、なんでこんなに細かいルールに縛られなければならないんだろう。もっと自由に生きたい。そんなことを考える毎日でした。
「自由に生きるためにはどうしたらいいんだろう」そんなことを真面目に考えて、中学生なりに出した結論が「自由に生きるためには、賢くならなければならない」でした。
そんな中、自分にとって理想の公立高校が家の近くにある事に気が付きます。その高校は、制服も校則もなく、生徒の自主性に任せられている自由な校風の学校でした。
「ここに進学したい」
それからは、友達とも遊ばず必死で勉強しました。「みんな勉強してないんだから、大丈夫。遊ぼうよ」という周りのお誘いをそれとなくかわし、コツコツ勉強しました。塾にも行っていなかったので、勉強の仕方も独自の方法でしたが、晴れて希望する自由な高校に入学したのです。
自分で選択できる自由は、「みんなと同じじゃなければならない」という同調圧力から私を開放し、その後、自由で楽しい高校生活を送ります。
超氷河期の就職活動
大学4年生になって就職活動を開始した時は、超氷河期といわれた時代でした。女性は、ほとんどがコネを利用して就職し、大学の就職課でもコネを利用した就職を勧められる、そんな時代です。
女性は一般職で大手企業に就職し、結婚出産で退職して専業主婦になる。結婚相手の男性がどんな企業に勤めていて、どんな仕事をしているのか?それが、女性のその後の人生を決めるような感覚が根強く残っている時代です。
そんな中でも、やはり自由な選択の中で自分の働く先を決めたかった私は、コネではなく、自力の就職活動を行います。インテリアや家具が好きだったので、好きな業界で働きたいと思い、不動産、インテリア、空間デザインなど何十社と応募しました。
そして、ここでもみんなと同じリクルートスーツがしっくりこなくて、1人明るいベージュの普通のスーツで就職活動。「リクルートスーツじゃないと内定もらえないんじゃないの?」という周りの不安をよそに、何とか希望の企業から内定をいただく事ができました。
最初の会社に新卒で入社した時、私は、これからの自分の人生やキャリアに夢と希望をもって、最初の一歩を踏み出しました。
最初の結婚で専業主婦に
新卒で仕事を始めて数年経った25歳の時、最初の結婚をしました。友人や同期に比べても少し早めの結婚でした。
今思うと、結婚する事によって、実家を出て、自立して自由になりたかったのだと思います。父は典型的な亭主関白のサラリーマン、母は田舎のお嬢様で専業主婦という家庭でしたが、当時の私は、父の難しさやそれに耐える母の姿がどうにも理解できず、そこから逃げ出したかったのかもしれません。
結婚後も仕事を続けていましたが、長男の妊娠が分かった事を会社に告げると「おめでとう!辞めちゃうなんてとても残念だ」と、出産=退職の前提で話が進みました。
当時の私は30歳までに、この仕事で経験を積んで、資格をとって…と自分のキャリアを思い描いていたので、出産=退職になってしまったことをとても悲しい気持ちで受け止めました。
妊娠して子供が生まれる事はとても嬉しいことなのに、反面とても悲しい。そんな複雑な心境です。
出産ギリギリまで働いて、退職しました。そして、母と同じ専業主婦になったのです。
それでも、子供が産まれると、目の前にいる我が子の可愛さに心を奪われ、専業主婦として長男と毎日一緒にいる生活に没頭していきました。
24時間365日、家事と育児の毎日でした。公園デビューも無事に果たし、ママ友もとてもたくさん作って、毎日公園に通っていました。
その後、4年後に次男が産まれ、ますます子育てに忙しい毎日になっていきました。
子育ては、初めての連続で大変でしたが、子供達の成長は楽しく、専業主婦としての生活を工夫しながら楽しんでいました。周りの友人もみんな専業主婦、そんな世界でした。
でも、自由がなかった。
いつか自由に働ける時が来るのだろうか?
自由に好きな物を選択する事ができる時が来るのだろうか?
好きな服を着て、好きな物を買って、好きな仕事をして…そんな時がやってくるのだろうか?
そんなことをたまに考えながら、目の前の2人の子供を育てる毎日でした。
夫が突然亡くなった日
そんなある日、夫が突然亡くなったのです。
長男が5歳半、次男が1歳3か月の時でした。
その日、私は、まだ寝ている夫を家に残し、子供達2人を公園に連れ出していました。ひとしきり遊ばせて、家に戻ると、夫は階段で倒れていました。
慌てて救急車を呼び、息をしていない夫に人工呼吸をするも全く反応はありません。この時、まだ5歳だった長男は、私の傍らで動かなくなった父親をじっと静かに見ていました。
救急車で病院に運びましたが、夫は、そのまま帰らぬ人となりました。
震える声で実家の母に電話をした事を今でも鮮明に覚えています。
父と母は、すぐに車で私達のところに駆けつけてくれました。
母は、行きの車の中で、当時勤めていた会社に連絡し、仕事を辞めました。私と2人の孫の面倒をみるために。
ずっと専業主婦だった母は、子供達が大きくなってからパートタイムで仕事をしていました。母にとっては、もしかしたら、これが父からの小さな自立だったのかもしれません。でも、我が子の緊急事態に、すぐさま仕事を辞めて、専業主婦に戻ったのです。
この日を境に私と子供達2人の人生は、大きく変わる事になるのです。
長男は、幼稚園の年中さんでした。
葬儀や片付けなど一通りが済んだ後、そのままこの家に住み続けるか、実家に戻るか決断する必要に迫られました。
私達家族は、夫の実家の近くに家を建てて住んでいたので、そのままそこに住み続ける事も出来ました。
子供達の生活はここにあり、お友達や幼稚園もここにある。
私が実家に戻ると言うことは、子供達の生活を全てリセットする事になってしまう。
義理の両親は、私が仕事をする間、孫の面倒は見るから、ここにいて欲しいと言いました。
でも、このままここに居続ける事が私に出来るだろうか?
正常な判断が出来なくなっている私を見て、父は半ば強引に私達親子を実家に連れ帰ったのでした。
専業主婦でシングルマザーという身分になった私
実家に戻ってからは、長男を新しい幼稚園に転園させ、私は専業主婦のまま実家に住む事になりました。
すぐに仕事を探す事もできたかもしれませんが、当時現役で働いていた父は、私が仕事をすることを猛烈に反対しました。子供達の面倒を見る事を最優先にしろ、経済的な面倒は自分が見ると言うのが父の言い分でした。
また、当時、実家があった地区は、65歳未満の両親が同じ市に住んでいる場合、子供を保育園に預ける事ができないという決まりがありました。もし、私が働くとすると、5歳と1歳の男の子2人を母に完全に見てもらう事になってしまいます。こんな状況でとてもそんなことはできない…
父親がいなくなり、生活のすべてが一変した長男は、新しい幼稚園に慣れるにも時間がかかり、3カ月近く泣き続けました。その様子を見て、父の言う通り、このまま私が仕事をするという事は出来ないなと感じ、父と母に面倒を見てもらう事にしました。
ここから私は、「専業主婦でシングルマザー」というなかなかハードな身分になったのです。その時、31歳でした。
「お母さんはちゃんと泣いてますか?」
当時、長男を通わせた幼稚園の先生から言われた一言。
毎日盛大に泣きわめいていた長男と比べて、私は、ほとんど泣く事ができませんでした。「息子さんは、泣く事で自分の気持ちの整理をしているんですよ。急に生活のすべてが変わった怒りや悲しみを泣く事で整理している。お母さんも一緒に泣いてください」と幼稚園の先生から言われました。
でも、そんな簡単にはいきませんでした。ただ、心は深く沈んでいました。トンネルは深くて、暗くて、出口は見えませんでした。
非常に心が弱っていた事は確かで、弱っている自分を守るために、人前では普通に生活し、家族以外の人達と仲良くなることを避けていました。
数カ月経つと、長男の幼稚園を通じてママ友なるものも出来始めましたが、私は一定の距離を置き、決して距離を縮める事はしませんでした。
興味本位の詮索や心無い一言が怖くて、これ以上、傷つきたくなかったからです。
自分は何者でもない
実家に引っ越してからの毎日は、長男を幼稚園に送り、そのあと、母と次男を連れて買い物に出かけ、お昼過ぎに帰って来て、次男の昼寝中に、母とランチを食べながらおしゃべりしたり、ドラマを観たり…夕方、長男を幼稚園に迎えに行って帰ってくる。そんな毎日でした。
一見、何不自由ない生活でした。実家に身を寄せ、生活は父のお陰で安定していました。孫たちが寂しい思いをしないように、父は、週末には、子供達を遊び場に連れて行ってくれました。当時は、私の弟も一緒に住んでいたので、弟も時間があると息子たちと遊んでくれました。
私たちが子供のころは、怖くて話しかけづらい父でしたが、この頃の父は、良いおじいちゃんでした。私たちが子供の頃に、もっとこんな風に話しかけやすいお父さんなら良かったのに…そんな風に思ったりしました。
今思うと、こじれていた父との関係を私はこの時期に回復したように思います。今まで見えてなかった父の思いや、家族に対する愛情を知る事ができました。
でも、そんな生活が続く中、私の心は常に暗い底にありました。
また、その頃、頻繁に夢を見るようになっていました。
大切な子供達が死んでしまったり、いなくなってしまう夢でした。
夫を救う事が出来なかった自分を責める、そんな感情も心に引っかかっていました。あの時、もし、ああしていたら?あの時、こうしてなかったら?そんな思いに捕らわれた時期もありました。
社会から切り離され、自分が何者でもない。自分1人の力では何もできない無力感の中で、心は深く沈み、出口は見えませんでした。
あんなに求めていた自由が今の私にはあるだろうか?
何も自分の力でできない自分に自由なんてないじゃないか。
誰かに頼っていてはだめだ。
出口は自分で探さなければ。
自分の人生を0からやり直そう。
ある日、そう決めて、進み出しました。
さて、まずは…運転できるようになろう。
(お願い)
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最初の一歩②
再就職③
激動の一年④
新しい出会いと再婚⑤
分割⑥
3人目の出産と実家からの自立
Authense初の育休と復職
自由になれた瞬間