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意志の力、力への意志、場をつかめ

第46週 2月16日〜2月22日 の記憶。 それを探る試みです。 
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。

今週は、意志の力?力への意志?
自分がいるべき場を意志によってととのえてゆくのだ。
というメッセージのように感じました。

では、いってみましょう。

U‘. SECHSUNDVIERZIGSTE WOCHE (16. FEBR. – 22. FEBR. [1913])

46.
Die Welt sie drohet zu betäuben
Der Seele eingeborne Kraft;
Nun trete du Erinnerung
Aus Geistestiefen leuchtend auf
Und stärke mir das Schauen
Das nur durch Willenskräfte
Sich selbst erhalten kann.

Anthroposophischer Seelenkalender, Rudolf Steiners,1913



  周界は心の力を
  情報でかたづけようとする;

  さあ、心の奥底から輝きを放つ
  記憶を呼び起こそう
  そして私の観透す力を強化する

  意志の力によってのみ
  自身をとめおけるのだ。



  

心で観ること

眼で観ているか?心で観ているか?
この問いに自信をもって答えられますか?人は外界を五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)で認識しています。そして、センサーから送られた情報を脳によって認識し、外界とつながっています。

なぜ、つながらなければならないのか?といえば、生命を維持するために、判断し処理しなければならないことを、この感覚を利用して滞りなく処理する必要があるから。

なので、人間の意識も同様に、危険信号に反応するような脳の情報処理機能の一端として考えられてきたのです。

しかし、ペンローズの量子脳理論の説明では

量子脳理論に共通するのは、意識の基本構成単位としての属性が、素粒子各々に付随するという考え方に基づいており、波動関数の収縮において、意識の基本的構成単位も同時に組み合わされ、生物が有する高度な意識を生じるとしている点である。 こうした理論が提出される背景には様々な動機があるが、そのひとつとは自由意志の問題である。これは物理的世界が因果的に閉じている(物理領域の因果的閉包性)という主張をうまくかわしながら、現在の物理学と整合的な形で実体二元論的立場を取るための方策として、物理系に因果作用を与えられそうな地点として、波動関数の収縮過程の存在を利用できるためである。とはいえ必ずしも量子脳理論と呼ばれる理論のすべてが自由意志の問題を背景にもつわけではない。

たとえばペンローズの理論は決定論であり、哲学的な意味では自由意志の問題ではなくむしろ数学的なプラトニズムの立場と関わる

Wikipediaより


波動関数の収縮?自由意志の問題?物理領域の因果的閉包性をかわす?
もう、ハテナマークしか頭に入ってきませんね。スミマセン。

簡略的にとらえると、意識は、脳を構成する神経細胞ニューロン単位で生じてくるのではないのです。微小管と呼ばれる超微細な細胞骨格により振動をキャッチし、その波動関数が収縮すると、意識の元となる基本的で単純な未知の属性が組み合わさることで生物の高レベルな意識が生起する。

そして、あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している。つまり、情報認識より先になにものかの波動により動かされているのだ。という仮説なのです。

どうでしょうか?

ノーベル物理学賞受賞者がそういっているのであります。ぜんぜん、うまく説明できませんが、ニューロン単位ではないのだ!という部分が大切なのです。それこそ、科学も観察できる範囲での理論でないとなかな認識が難しいのです。脳内にそのようなセンサーがあり、心が生みだされるきっかけをつくり出しているとすると、昔の教科書の常識は通用しなくなってしまうのです。

ただ、脳のふるまいにおいては、どう考えても五感で感じる部分にひきづられてしまうのは想像に難くありません。生命を維持するために、判断し処理しなければならないことを最初にやっておかないと生死に関わることですので、ヤバいわけであって、日常はそちらが中心になってしまうのでしょう。

ですから、「心で観ること」とは、
静かな状態で微小管の振動を感じる必要があるのです。

心で観てみろ!と叫ぶことではなく、静かな音をじっくりと聴く感じなのかなと勝手に想像してしまいます。

時代が進めばさらにいろいろなことが明らかになってゆくのでしょうね。いままで、感じることしかできなかったことが、言語化され、科学的にも証明されてゆくことで、これらの考え方があたりまえになるのでしょうね。
ワクワクしますね。

意志の力は果たして自分の意志か?

上記のことをふまえて考えてゆくと、自分自身をこの場に存在させている意志があるとして、それが自分だけの意志なのだろうか?という疑問がわいてきませんか。ホント面倒なことを言い出してスミマセン。

普通自分の意志は、自分の意志だろ!何をあたりまえのことを言い出すのだ。とイラッとさせているかもしれませんね。

でも、意志とは、個の内に主体的に起きる感情のみではなく、意志は自然現象を含めたあらゆる物事の内にせめぎあっていると考えるべきではないでしょうか。大いなるものの力への意志の悠揚さが、すべての物事の形、配置、動きなどを決めている。

つまり、作品も存在するものではなく、大いなるものの力への意志により、うまれては、きえてゆく、心の現象ととらえたほうがよさそうな気がしてきているのですよね。

大きな意味では作品などにとどまらず、自分自身の存在そのものへの意志の力が、大いなるものと自分との関係性のうえで感じるべきものなのであるというヒントなわけです。


2024年2月ポプラ


自己同一の意志(アイデンティティー)とは、自分は何者か?目指す道は?人生の目的は何か?自分の存在意義は何か?自己を社会のなかに位置づける問いに対して、肯定的かつ確信的に認識できる欲求はだれでももっていますよね。

その多くは、家族や学校などでの親兄弟先生などの強い人間関係のつながりや影響力のある書籍などによって、身についてゆくものなのでしょう。

  意志の力によってのみ
  自身をとめおけるのだ。

でも、今週のこの詞(コトバ)から感じなければならない意志は、大いなるものの意志であることなのです。

仮に学校の先生からおしつけられたアイデンティティーだとしても、それは、偶然性のドミノなのではなく、大いなるものの意志による力が必然性をもってドミノの列を準備していると考えたほうがよいのかもしれませんね。

ただその時に、どのようなみえない力が働いているのかを観透すことが重要なのですよと教えてくれています。

自身をどの場所に居させるのか?という選択はどうやら直感的に与えられているようです。そして、必要な力を受け取るも受け取らないも自分しだい。

ただ、自分がこの場に居る記憶を呼び覚ませ!と
先生はいっているようです。



シュタイナーさん
ありがとう

では、また


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