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韓国日記4

6月になって、すこし政情が落ち着いてきて、生活も正常化してきた。韓国の大学は2月に始まるので、6月も後半になると夏休みに入る。この年は政権安定化のためもあってか、夏休みがすこし早くなっていた(と記憶する)。授業はあまりせずに夏休みになってしまった。結局、毎日大学には出勤していたが、韓国に来てから夏休みになるまで学生に遊んでもらって、慶州市内を回っただけになる。

彼女とは、その間ずっと電話したり、手紙を書いたりして連絡していたが、母親を連れて、慶州に来た。観光ツアーで来たので、特に迎えに行くこともなかった。慶州では東急ホテルに泊まっていたはずであるが、そこに会いに行ったのか、二人で宿舎に来たのか記憶も記録もない。いずれにせよ、観光は母親に任せて、彼女は一人で慶州の町の見物をすると言うので付き合った。京都で会ったときは、パーマを当てて、軽く茶色に染めていたのが、ストレートの黒髪で現れた彼女はとても輝いて見えて、すこし心がときめいた。

まず、宿舎の様子を見てから、アレシジャン(下の市場)という市場に行った。ここは宿舎から歩いて20分ぐらいのところあったのだが、バスで行くと5分もかからなかった。市場をひとしきり回って、町の様子を見てから、慶州の町の観光ツアーっぽいこともした。新婚旅行の人気スポットということもあって、見るところはいくらでもあるわけである。デートスポットっぽいところを何か所も周り、いい雰囲気になるわけだが、別にそれ以上の進展はない。

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だが、当然のことながら、ツアーのメンバーには韓国で働いてる婚約者扱い(会うのは三回目とは言ってない)ということで、夕食の焼肉やいろんなところを特に料金も払わず、飛び入り参加で回らせてもらった。ここら辺が韓国の鷹揚なところである。

飛び入りで参加した焼き肉は残念ながらそれほどおいしくなかった。前に大学の偉いさんに連れられていった時は非常においしかったのだが、日本の団体相手に明らかに手を抜いている訳である。このころの韓国はいわゆるタンゴル(단골)社会で、なじみ客優先である。現在はどうかわからないが、利害関係のある特定の客を優先して他の客はないがしろにする傾向があった。よく来てくれる客にすこしサービスをするというのは日本でもあるわけだが、当時の韓国はそれが多少行き過ぎたところがあり、一見の客からぼったくって、露骨になじみ客によくするという習慣があった。一見の客はなじみ客になる可能性を持っているわけで、それをわざわざ一見の客にとどめる行為を行うのは経済合理性に反する行為だと思うのだが、当時はそのようなことが多かった。

母親が観光している間、町の様子を見て回り、すこし町の観光もして、5日ほどで彼女たちは帰っていった。

彼女は韓国では美人に分類されるらしく(日本ではどうだかわからない)、私は訪ねてきた日本の婚約者がミスコリア級の美人だということで(韓国人はこういうことに関しては口が上手い)、いままでの老チョンガーから、3階級特進扱いを受けるようになった。

私としては、完璧に結婚に向けて心が動いていて、毎日うきうきしてくる。その後のやり取りから、今回の旅行は、慶州に住めるかどうかを下調べするという目的があったらしい。食糧調達のための市場や洗剤その他生活必需品をそろえるスーパーなんかも歩ける距離にあるということで、無事合格ということになった。

おまけに母親のお眼鏡にもかなったらしい。ということで一気に本当の婚約に向かっていく。このころの手紙には多少恋人同士っぽいやり取りもあったのかもしれないが、記憶がない。相変わらず、韓国の政情や慶州の人たちの暮らしぶりなどを書き綴っていたのではないかと思う。

すでに夏休みにも入ったということで、学生たちもいなくなり、先生方もソウルに帰っていったので、慶州にいてもすることもなし、いったん帰国することにして、京都の昔住んでいた留学生会館のゲストルームを予約して、そこで彼女の家に通ったりした。帰国するともうすでに婚約は決まっている雰囲気で、というか、たぶん韓国にいる間にそういうことは決めたのだろうと思うが、結納の日が決まって、両親が結納の品をもって彼女に家に来て、無事、婚約となった。というわけで、特にプロポーズもしていないわけで、そんなことでいいのかという気がしないでもない。

結局、夏季休暇中の2か月ほどの間に、母校の恒例の石徹白合宿に一緒に行ったり、NGO先生の旅行に一緒に行ったりして、すっかり、婚約者として友人たちに紹介することになった。

夏休みが早く始まる分、学期の始まるのも早いわけで、8月中旬には慶州に帰ることになる。8月16日には崔圭夏大統領が辞任し、8月27日は軍事クーデターの主役である全斗煥が大統領に就任した。このころには大学は再開されていた。韓国日記5に続く