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10年越しの反省とこれから。

2021年3月11日、東日本大震災から10年が経ちました。この時期は否が応でも震災に関する報道を目にするし、当時私がどのような生活をしていたかも思い出します。

この1年、noteを書くようになった事で私自身の考えを発信する機会が増えました。そうして迎える初めての3月11日でした。

少し遅くなってしまいましたが、今まで看過してきてしまった想いを、書き留めておきたくて、今この記事を書いています。

2011年3月11日

2010年に高校を卒業した私は、1年間大学受験の浪人生活をしていました。3月初旬にすべての結果が出揃い、応援してくれていた周りの人たちへの報告が一通り終わった頃で、1年先に大学生活を送っていた中高の友人を自宅に招いて遊んでいました。

そして14時46分。

神奈川県に住んでいた私も、確かに長く、大きな揺れを感じていました。友達と、「なかなか止まらないね」なんて話をしながら窓を開けたり、身を屈めたりしていました。

数分後。

揺れはおさまり、その後も自宅でおおよそ普段通りに喋っていたと思います。ただ、事態が明るみに出て報道され始めたことで、だんだんと異常な事態であることを理解しだしたと記憶しています。

神奈川県でも停電が続き、電車は動かないし信号も機能せず。結局その日、友人は私の自宅に泊まってくれることになりました。

それでもなお「こんな日もあるよね」と、友人と自宅で語らえる夜を特別だと感じる程度だったと思います。
※友人たちが当時の事態をどう感じていたかわかりませんが

深夜に停電は復旧し、翌朝友人を送り届けて一件落着。という2日間でした。事態の大きさを知ったのはその日以降の報道を見てからだったと思います。


自分の小ささを痛感した

日々続く報道を見て、「大変なことが起きている」ということはどんどん認知するようになりました。私自身も大学の入学式がなくなり、授業が始まる目処が立たず、悶々とした日々を過ごしていました。

そんな時期を過ごして、「震災がこんなにも大変なんだ」と漠然と感じていたことを覚えています。

そんな時SNS上で、東京のスタジオから東北の惨状を伝えているメディアに対するコメントとして、以下のようなものを目にしました。

「報道者として、事実を伝えることに努めているのか?
 当事者でないから、淡々と伝えることができるのか?」

もちろんこの言葉が意図がメディアを揶揄するためでも、疑問を投げかけていたのかも真意はわからないのですが、私は強烈にハッとさせられたことを覚えています。

画面に映し出される東北の惨劇に、「目に見えているもの」以上の感情を抱くことができず、その裏にある人々の生活を想像できなかったことが悔しかったです。

そして、私の生活の不便を憂うことしかできなかった自分自身がとても恥ずかしくなりました。

答えなんかわからない、それでも

幸いというと語弊がありますが、私の家族、友人やその関係者には被災した人がいませんでした。

だからと言ってあのような事態を看過していいものではないし、手を取り合える人でありたいとも思います。そのためには、同じ経験はできなかったとしても、慮って行動することはできるのではないか、と考えています。

「経験がないからわからない」と、逃げてしまうのではなく、まず事実を知ることから始めたいです。この1週間、さまざまな特番や記事を目にして、見れば見るほど私がこんな記事を書いていいのかを考えては手を止め、何度も消してきましたが、事実を知り、今感じている反省は書き留めておかなければ進めないと思って書きました。

これからはもっと、何ができるかを考えていきたいと思っています。2019年12月に、仕事で石巻に行くことがありました。その際に、私は初めて津波を経験した人たちと直接お話しすることができましたが、助け合うことで困難を乗り越える大切さを知られているように感じましたし、とても強いと思いました。

そのような人たちに触れられたのなら、私たちができることは何かを考えて関係を深めていったり、今も復興のために奮闘している人たちの想いを汲み取ることをしていったり、貢献の形はいくらでもあると考えています。


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当時、私は何もできなかったですし、今も何もできていません。
そのことが10年越しの反省であり、これ以上「3.11」という日を素通りしないように、この発信から行動していきたいと思います。

日々感じたこと、ほんの少しでも誰かのためになることを なるべくやわらかい言葉で伝えていけたらと思います。 これからもどうぞよろしくお願いします。