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「アイドル沼」にハマる幸せと危うさについて、ハロオタが考えてみた

「沼」という言葉はここ数年で急速に市民権を得ました。

ゲーム、漫画、キャンプ、そしてアイドル…。グイッと心惹かれたものにずぶずぶハマりこみじゃぶじゃぶ時間・お金を費やし、「ヤバい」と口走りながらも、顔は恍惚としている。それが沼。

私も例外ではありません。
「ハロプロ沼」にハマり「ハロオタ」となって8年。そこには間違いない生の実感と幸福があり、私を生かしてきました。

いっぽうで、自らに問わずにいられないこともあります。
「私たち沼住人はときに、アイドルたちの足をひっぱっているのではないか?」
アイドルというものの特性が、わたしにこの悩ましさを起こさせているような気がします。

この記事は、

  • アイドルが生み出す楽しさと幸福感とは何か?

  • いっぽうで、沼住人が持ちやすい危うさとは?

オタクがそんなことをぐるぐると考え込んでいる話です。

「アイドル」の特性について

アイドルは「人間そのもの」が商品になる職業です。

歌とダンスは、アイドル自身の魅力をベースとした総合芸術を構成する一要素です。表現力を含めた、あらゆる角度での「本人の魅力」で勝負します。

どのアイドルも、性格や私生活のふるまいすら商品になりうることを本能的にわかっていて、多かれ少なかれ出す部分と出さない部分を見極めているのではないでしょうか?
そう思うと、アイドル=偶像とは言い得て妙なものです。

「人間自体を観る」ものだからこそ、ときに感情を揺さぶり、成長を賞賛でき、多くの人を惹きつけ、救う存在にもなる。
アイドルの中に、リアルな人間のストーリーや共感を見出すことができるからです。

アイドルが見せてくれる幸福

たとえば私が追っているハロプロもまた、アイドル自身の成長や表現の変遷を見て楽しむものです。

ハロプロは、楽曲表現とステージパフォーマンスを至上とするアイドル集団です。個性やスタイルを持ったグループがいくつかあり、さまざまな女の子が所属しています。

今回は誰がどこの歌割りをふられているのか?曲中のおいしいポジションを誰がかっさらうのか?ライブ映像で最もキマってるのは?YoutubeにアップされるPVのサムネは誰のキメ顔か?
常にリアルでシビアなせめぎあいと競争がそこにあり、ファンはそれらを追いかけながらも、新鮮にパフォーマンスに魅了されています。

それは、さながら予測不能な群像劇のよう。
選ばれた者、選ばれなかった者。
血の滲むような努力と実力が報われることもあれば、突出した魅力によって突然、予想外に抜擢されることもあります。
そうしてうちのめされた者が、その後生まれ変わっていく様子すら、実際にリアルタイムでみることができるのです。

彼女たちが感じているいろいろな感情の中に、誰もが少しずつ自分も感じたことのある、あるいは憧れた心を見つけることができるはずです。
だからこそ、彼女たちの喜びを、まるで自分のように感じることもできます。

これは、間違いなく、アイドル沼だからこその楽しさと幸福のひとつでしょう。

そうして彼女たちの変遷と魅力を追ううちに、いつのまにか、私は日々チケットの当落に一喜一憂し、ライブ中継が決まればいそいそとスカパーを契約し、とうとうまるでドラフト指名有望株をみるように研修生まで追うようになっていたのでした…。

ああ、アイドル沼とはなんと幸せな沼なのでしょうか。

ファンによって強固になる「アイドル」像

いっぽうでアイドル沼に沈むことは危うさもあります。

それは、アイドルは、ときに恋にすら近い形で感情をゆさぶるからこそ、沼の住人が、アイドルの行動・人格にも言及し「こうあってほしい」という気持ちを強くもちやすく、そして、そうする権利があると錯覚しやすいことです。

沼はアイドルが提供するものですが、沼にハマるものたちが「なにがアイドルたらしめるのか」の枠組みを強固にしていく面もあります。

たとえば、スリムで魅力的な外見であって当然。異性には興味を持っていないし、恋愛はしない。これは、「日本のアイドル」のどメジャーなありふれたイメージです。これを基盤に、アイドル像の肉付けがされてきました。

アイドル自身が沼に引き摺り込まれるとき

「アイドルってこうだよね」があるからこそ、その波に乗って更なる飛躍や表現を開拓したり、あるいは裏をかいて、いい意味で新たな魅力を定義するメンバーも現れたりしてきたのは事実です。

ですが、アイドルの歴史の中では、しばしば、本人の意思よりも「アイドルらしいかどうか」が重視されてきました。
そこからはずれるような意思は「あってはならない」こととされ、往々にして糾弾すらされます。

糾弾の対象は、外見の変化であったり、踏み込んだ発言にだったり、プライベートでの振る舞いであったり、写真集を出す出さないという判断にだったりしました。

愛情が大きいほど、翻って「裏切られた」という気持ちも大きくなるものです。深いファンであるほど、時に、驚くほどおおきい感情の揺れ動きや反発を見せて、アイドル自身のキャリアにすら影響を及ぼしてきました。

マーケットやファン、あるいは顧客がそうなら…と、アイドルも当然、それに同調し、期待される枠組みからはずれることを恐れるようになっています。

仮に、私自身が積極的にそのことに加担しているわけではなくても。
この「アイドル」文化の枠組み、あるいは構築された沼にともに沈むこと自体が、沼をより強固にし、彼女たちの行く手を阻み、ときに傷つけてしまうのではないか?と不安になることがあります。

私がアイドルを応援することで、彼女たちの選択肢をせばめる遠因につながってしまわないか?と。

「神」は人間ではいけないのか?

「神格化」という言葉があります。
実際に、しばしば、スターは「神」と呼ばれます。

沼の主であるアイドルと、沼にハマるアイドルファン。その姿は、教祖と信者に重ねて語られることもあります。

「神」はわれわれ平凡な「人間」とは違うんだから、ふさわしくない行動をとるべきではない。
私は、彼女たち(あるいは彼ら)がときにそう扱われているようにも見えます。

あたりまえですが、彼女たちは「神」ではなく、アイドルである以前に人間です。私は、彼女たちが彼女自身として満ち足りることを前提に見守っていたいと感じています。

「魔法がとける」ことを恐れないで

この悩みに、明確な答えはありません。

かわいいと信仰されることは魔法です。その魔法は人気を押し上げ、たくさんのチャンスをもたらすこともあります。

いつ魔法がとけるかと怯えている。女の子でいることは魔法だし、人目を惹く女の子でいることは、もっと魔法だから。

綿矢 りさ「ひらいて」(新潮文庫)

でも、勝手かもしれませんが、信仰の魔法がとけることにも怯えすぎないでいてほしいとも思います。
プロ意識と、自分の存在を押し込めることを、いちファンとしては同義に捉えてはほしくないのです。

誰が推してようが推してまいが、彼女たちが毅然とその人なりの「マジ」でそこにいるということが、どんな姿であれ新しい誰かの励みになることは間違いないと信じています。

それぞれの「マジ」で勝負してほしいし、私たちを驚かせ、圧倒してほしいし、ときに裏切って欲しい。
枠を突き進む美しさもあれば、むしろ、枠から外れてこそ、新たな魅力が開かれることもあります。

わたしが彼女たちに背中をおされるときに、彼女たちもせめて、その活動を見守られる中で少しでも背中をおされていてほしい。

だから、どんな選択をしても、それを尊重して応援し、ぜんぶまるごとドラマとして幸福を受け取る。
すくなくともそういったいちファンもいるんだと。
私ができるのは、その姿勢を貫いて見守り続けるくらいことかもしれないと思っています。


最後まで読んでいただきありがとうございました。
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