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ネタバレ:鬱漫画の傑作『おやすみプンプン』を読み解く❷

●はじめに

前回に引き続き浅野いにお先生の漫画『おやすみプンプン』を自分なりの解釈で読みといていきたいと思います。前回は”信じるとは何かというテーマ”と”読者の解釈が投影できるプンプンのフォルム”について言及しました。今回はその続きで”浅野いにお先生の投影である幸”、”本作のメッセージ”について言及したい。

●浅野いにおの投影としての幸

 前回、幸がプンプンと全く同じひよこフォルムのキャラクターを主人公に新しい漫画を描こうとしているという終盤のシーンについて言及した。つまり、この物語は幸によって描かれたものであるというメタ的な視点があるのだ。言い換えれば幸とは浅野いにおの投影だと言えるのかもしれない。このように、浅野いにおの投影として幸が描写されている場面について言及したい。幸が、プンプンが作った物語を原作として書いた漫画を浅野いにお本人と容姿の似ている漫画編集者に提出するという場面がある。

その際に編集者から

「言いたいことは売れてから自由に書けばいいと思いますよ」

と言われる。一度その言葉を受けて、大衆に寄せて書いた漫画が浅野氏の長編デビュー作である『ソラニン』であることが判明する。(125話)このように幸の視点を通して、浅野氏自身の自己批評的な視点を入れているのだ。

 『ソラニン』は、宮崎あおいと高良健吾主演で映画化もしたヒット作だ。その一方で、それは読者受けを狙った作品であり、自分の言いたいことが言えた作品ではないという本音を吐露しているようにも読み取れる。ヒット作を生み出し、認知度も上がった“売れた漫画家“になった浅野氏が『ソラニン』の次の長編連載作品として取り組んだ本作は、彼の言いたいことが自由に描かれた作品であるのではないだろうか。浅野氏がインタビューで「この作品を書く為に漫画家になった」という発言しており、その真意はこの点にあるのだと考えられる。

 このように幸は浅野いにおの投影であり、おやすみプンプンという物語は幸が作り出した物語ということができるのだ。しかし本作が幸が作り出した作品とう特定の個人の物語ではなく、誰に対しても当てはまる普遍的な物語であるということが示される。次にその点について言及したい。

●すべての人に当てはまる『おやすみプンプン』という世界

 本作は、1巻から誰かのナレーションで進行しており、プンプンの内面描写やセリフはナレーション内のかぎカッコの中に描かれている。そのナレーションの声の主は、143話で幸のものであったことが判明する。この143話以降、幸によるナレーションはなくなる。144話では、プンプンの姿が人間の姿として描写され、わずかではあるが吹き出しで彼の口から出た言葉が書かれる。その言葉は「僕の名前は、、、」というものだ。そして145話でも、プンプンの夢の中ではあるものの、吹き出しの中の彼の台詞が描かれる。つまり他者に主観を委ねられていたプンプンという少年が、はじめて自分の主観でこの世界を認識できるようになったと言うことができる。言い換えれば、彼自身の中で自分は何者かということに対する一つの答えが出されたのだ。もちろん、それは読者によって様々に解釈できるが、彼の中では確固たるものとなり、その答えに対して主観を投影することは不可能になった。したがって、人間のフォルムという、それ以外に認識することのできない姿になったのだ。

プンプンが主観を獲得した本作だが、ここでは終わらない。新たな主観で『おやすみプンプン』という物語が捉え直される。その主観の主はハルミンというキャラクターだ。

 ハルミンは、小学生編で初登場するプンプンの親友だ。めがねで少し控えめなキャラクター造形は浅野いにお作品にはよく出てくるものである。インタビューにおいても浅野はハルミンというキャラクターを重要視しており、作品の最後に再登場させることも初登場の段階から考えていたものだと公言している。

やがて彼が転校することになり、二人は離れ離れになる。しばらくしてプンプンママが肺気孔で入院している病院で再登場する。二人は幼馴染の母親と息子の幼馴染という関係を知ることなく交流を重ねる。そして彼は最終話で再び登場する。この最終話は彼のナレーションで進行する。1話だけではあるものの、ハルミンの主観で描かれる物語になるのだ。彼はある日歩いていると、退院したプンプンと再会する。彼は、プンプンと同じ小学校に通い遊びあった仲であることを認識してはいるものの、プンプンの名前を思い出せない。

その時のプンプンは前のnoteで言及したように鳥人間のフォルムに戻った状態でいる。145話で人間の姿で描かれたプンプンが、ハルミンの主観では鳥人間のフォルムで写っているのにはいくつか理由が考えられる。プンプンが人間で描かれる144話、145話は、この物語対しての主体性を獲得したプンプンの視点で描かれるため、読者の主観を投影することができない。しかし146話では、ハルミンという他者の視点で進行する。彼はプンプンが壮絶な逃避行を行ったことを知っているはずがない。だからこそ、プンプンは自身の主観を投影できる存在としてのひよこのフォルムとして映るのだと考える。もしくは自分自身でいること=可能性が開かれた状態であるという公式が成り立つため、何者かを自覚したプンプンは可能性が開かれている状態と言える。したがって可能性が開かれた状態の象徴であるひよこのフォルムをしているのだと言えるのかもしれない。

 再会したハルミンは、彼の名前を思い出すことができなかった。そして彼のナレーションで「もう彼を思い出すことはないのかもしれない」と語られる。この何気なく描かれる再会のシーンに、本作のメッセージを集約させるような意味が込められているように思える。それは“人間というものは知らない間にお互いに影響を与え合っており、そのような相互作用の元に成り立っているのだ”ということだと考える。ハルミンは入院中にプンプンママと出会い、彼女の価値観に大きな影響を与えたように、知らない間にプンプンの人生にも影響を与えている。本作の中において、知らないうちに影響を与え合う人間というものについて言及したい。

●知らないうちに影響を与え合う人間たち

 後半から主要登場人物となる幸だが、実は前半部にさりげなく登場している。小学生のプンプンが訪れた廃工場でスケッチブックを持った女子中学生が登場する。彼女はその時点では、特にプンプンの物語に関わることなく描かれる。また整形前であり、容姿は中盤で登場する時点と異なっている。幸の母親はその工場で働いていたこともあり、幼少期に母に付いてその工場によく訪れていたということが描かれる。そしてその工場にはプンプンの小学生時代の友人である関くんの父親が弁当を届けており、その父親に連れられた彼は幸とその段階で出会っていたということが判明する。このように本作は人間が知らないうちにお互いに影響し合いながら生きているということが表現されているのだ。

 そのような相互作用は一時的なものでなく、循環するものであるということも語られる。循環というものが大きなテーマであることを示唆するような言葉が、死を前に控えた愛子の口から語られる。「きっと無理し続けようとしても、いつか必ずあるべき場所にもどるんだ」(138話)

 これに加えて、循環を象徴するラストシーンについて言及したい。小学校の先生となったハルミンだが、その容姿はプンプンの小学校の担任教師に容姿が似ている。この担任教師にもハルミンと同じような人生を送っていたのではないかと解釈できる奥行きがある。またハルミンの端にするクラスでは、当時プンプンが愛子に一目惚れしたように、名前も明かされない少年が転校してきた少女に一目惚れをする。そしプンプンがかつて友人たちとしたような「地球っていつか滅亡するんだって」「セックスって何?」「普通って何?」という会話をする小学生たちが描写されて本編は終わる。再びプンプンたちのような物語が始まるかもしれないし、全く別の物語が始まるかもしれないなどいくらでも解釈できるようになっているのだ。

 まとめると、人間は知らないうちにお互いに大きく影響し合って生きており、その相互作用は循環し繰り返される無限のサイクルと言える。これは特定の人間においてではく、この世界を生きるすべての人間に当てはまるのだ。このように、幸の主観的な物語という側面が強いとも言える作品だったが、プンプン自身の視点、別の他者であるハルミンの視点を入れることによって、誰か個人の物語ではなく、より普遍性のある物語となったのだ。

 また、もう一つ循環というテーマを示唆する場面として雄一おじさんの息子が誕生するシーンについても言及したい。雄一おじさんは結婚した女性翠との間に子供をもうける。プンプンの一族同様、その子供はひよこのフォルムをしている。その子供の目の中に小さな“神様“が描かれている。つまり、暴力衝動や性衝動の象徴であった”神様“は生まれながらにして誰にでも存在するものなのだ。それを目に宿して生まれた息子もプンプンと同じような物語を歩むかもしれないし、そうはならないかもしれない。その子供を見た雄一おじさんは「こんなのただの希望じゃないか」と泣き崩れる。そんな希望の中に絶望を生み出す可能性のある“神様“が宿っているのは、希望にも絶望にもなりうる開かれた未来へと新たな”循環“が始まったとのだと読み取れる。

 これから『おやすみプンプン』のメッセージをまとめ上げるために、最後に自分自身でいること=他者と自分を明確に分けることができるということについて述べていきたい。

●自分自身でいること=他者と自分は違う

 “自分が自分自身でいること”は“世界を自由に捉えることを可能にする”ということについては前のnoteで言及した。それだけでなく、それは“他者と自分を明確に分けること”だという視点を付け加えたい。

 理解し合えない人間同士の営みは人類が滅亡しない限り、繰り返される。そんな営みに希望を見出すには、他者の主観を尊重することだと言える。そのメッセージの担い手として考えられる宍戸に焦点を当てて述べていきたい。

「考え方は人それぞれだから、二人とも言ってることは正しいし、二人とも間違ってる。いろんな意見があるのは楽しいね。それでいいじゃない。」(93話)

フリーター編から登場する宍戸というキャラクターは、プンプンや幸などを俯瞰した視点で見つめる。そして様々な主観がぶつかり合う本作において、主観の多様性を認める特殊なキャラクターだ。万引き犯に疑われた彼が店員にタックルされ、下半身不随の重傷を負った時でさえ、

「だれもわるくない ひとをしんじて もっとやさしく みんななかよく」(97話)

と言う。病室で宍戸の看病に来ていた幸らは、彼を万引き犯だと疑った女性やタックルした店員に対して怒りの感情に支配されていた。しかし事故の当事者である宍戸は、誰に対しても怒りの感情をぶつけずに、その女性や店員は自らの主観に基づいた正義を行ったということを肯定するのだ。自分の主観で加害者を一方的に非難しても争いは解決しない、それならそれぞれの主観を尊重し、平和に生きたいと願うのが宍戸という人物だ。人を信じようとする彼は、本作においては異質な存在として描かれる。最終的にプンプンは、自分は何者かということを自覚するが、他者と自分は明確に違うのだということを自覚したことにもなる。そしてそれは他者の主観の存在を認めたと言えるのかもしれない。この変化も宍戸という人物の言動があるからこそ強調されるのだと考える。

●『おやすみプンプン』のメッセージ

 これまでで自分の考える『おやすみプンプン』のメッセージを全て書いたのでここでまとめたい。

・人間は主観が異なる

・人間は多面的であり、他人は主観を通じた面しか知ることはできない

・だから人間は他人を完全に理解することはできない

・そんな人間たちは知らない間にお互いに影響を与えながら生きている

・その相互作用は循環する無限のサイクルである

・そのサイクルの中には希望も絶望も含まれている

・希望にも絶望になりうるこの世界で生きることへの覚悟を持つことができれば、自分が  

 自分自身でいることができる

・自分自身でいることで、世界を自由に認識できる

・自分自身でいることで、自分と他者の違いを認識できる

・自分と他者の違いを認識できれば、他者の主観を尊重することができる

・他者の主観を尊重することができれば、希望を循環し続けることができる

 これは現時点での私の主観に従った『おやすみプンプン』の解釈である。浅野氏は読者の主観の様々なあり方を肯定している。そして「考え方は人それぞれだから、二人とも言ってることは正しいし、二人とも間違ってる。いろんな意見があるのは楽しいね。それでいいじゃない。」という宍戸のセリフの通り、それらの解釈が正しい、正しくないと決めるのもまた主観だ。したがって一つの主観としての自分の解釈も様々あるものの中に一つなのである。

・まとめ

本作の結末を絶望なのか希望なのかは読者の主観に委ねられている。変に鬱漫画という言葉が先行し、それによって興味を引かれる人も一定数いることも間違いない。しかし本作は、ただの”鬱漫画”では括り切れない奥行きや豊かさのある作品である。ぜひ一読することをお勧めします!

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