「愛がなんだ」は、ラブストーリーなんかじゃない。
※ネタバレを含むのでお気をつけて※
「この人は、私のことを大事にする気が少しもないのだな」と思い知らされる好きな人の言葉を、笑って受け流したことがある。
そういうひとには、胸をえぐられる物語だった。「みたあとに死にたくなる説」がSNSで浮上していて、なにがそんなに辛くさせるのか?の答え合わせをする感覚で見に行ったわけだけれど
その瞬間を見つけるのは、あまりにも容易で。死にたいとまではいかないけれど、「勘弁してよ」とおもう時間がひたすら続いた。
「愛がなんだ」は、ラブストーリーなんかじゃない。守とテルコのあいだに、“愛”を感じた瞬間は一度もなかった。というか、愛のように見えるものすべてを私は否定した。
「あれを、愛だなんて思う自分でありたくない」という自我がむき出しになった。
最初から最後まで、自分のことが一番可愛い。
それなのに、自分のことを大事にもできていなくて、ゆえに、相手を大事にすることもできない。
エゴイズムの泥沼のようだった。
「全部あるのに、全部ない」どころの騒ぎではない、何もない。自分以外、ふたりの間には何もかもない。
守はいつも、“想像よりちょっと上のダメさ加減”だった。
飲み屋で朝を迎えたときの「なんで来たんだよ山田さん」も
中目黒のバーの帰りにテルコの家を選ぶところも
誘い文句が「やらせて」だったことも
好きじゃないから勃たないくせに、お酒のせいにしたことも
もう会わないと話しに来た日、テルコが自分の痛みを突き放して「すごい自惚れだね」と笑ったとき、「よかった〜」って言葉がくるのではないかと、胸を抑えた。
守が放ったのは、「なんだ安心した〜」だった。そして「友達いないからさ」などと、とんでもない会話を続けテルコを刺し続けた。
やっぱり想像より、ちょっと最低だった。
とはいえ、テルコが被害者だなんて思うわけでもない。
彼女もまた、最後まで守を思っての選択ではなく、自分自身を思っての選択をし続けたからだ。
「もう会わないほうがいい」と守が話を切り出したとき、あれが、最後のチャンスだった。それをつくってくれたのは、テルコのことを大切に思う親友だった。
それを彼女は、笑って赦したのだ。自分のために。
ならいっそ、「ああ幸せだ」と笑って見せてほしい。「愛がなんだ」と睨むくらいなら、ハッピーエンドを見せてほしい。
強くなければ、愛し合うことすらできないのだ。
私は劇中で、なんどもなんども、そう思い知らされた。
愛していると言われる、愛していると言う、そのとき、必要な覚悟は、たった一人で生き続けるという覚悟だった。
最果タヒさんのこの詩がずっと、私の心に絡みついている。
苦しみに滲むテルコの顔を見るたびに、好きな人の冷たい言葉を笑って受け流した、あのときの自分が重なって、「これは愛なんかじゃない」ともう一度否定した。
彼らは向き合いながら自分自身をずっと見ていて、私たちもまた、彼らによって浮き彫りになる、自分を見ている。
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