生きる理由なぞ無く
無能が横たわっている。俺を表現する全てはこの語彙だと思う。才や甲斐性の無さと、それに反比例するようなふてぶてしさ。それが俺の全てだ。
塾を二日ブッチして文化祭に行った。楽しかった。自分が誠実に頑張って生きようとしていたのが馬鹿みたいに思えて来て仕方が無い。無能が頑張って何になるんだ?ただ笑われるために努力しているのか?無能は無能らしく勉強だエスキースだなんて上を目指す努力はせずに、今から自分の幸せのハードルを下げる訓練をしろよ。
俺の将来の目標はスーパーの惣菜で幸せを得れるようになることだ。惨めだと後ろ指をさされても、俺は生きなくちゃいけない。どうして自分が生きているのか、なんて悩みを持った中高生そして中高年男性は多くいるけれど、答えは明確だ。死んでいないから、それだけである。生に理由もなく目的もなく、死以外の状態全てが生である。生きる目的だと理由だのは全て脳のホルモンのバグに過ぎない。その目的を達成したところでファンファーレの中痛み無く死ぬ権利が与えられている訳では無い。俺達はシナプスとニューロンで動く精密木偶人形として生を謳歌し、目的も理由もなくそれを歌い終える。それが人類であり、それが私たちのはずである。
しかしホルモンのバグである生きる理由や目的は、生を謳歌する上での苦しみに理由をくれる。だから皆が生きる目的や理由を必死に探すのだ。希望も何もない果てのない砂漠が如き苦しみは、人を殺すに十分であるに違いない。
どうせ幸せのレベルは下がらない。下げたって、私たちはふと来る虚無に喉笛を食い裂かれる定めにある。
いつもより少し豪華な弁当が半額で嬉しいな 死にたい
と言う宇野なずきさんの短歌を思い出した。生は果てなく苦しい。死を知らない我々にとって死は魅力的だ。死ももしかしたら生より大変なのかもしれないが、死んだ先で我々が生きたいと叫ぶほど愚かな事はない。
ニコ・ロビンを見習おう。彼女は地獄のような生の中で、それでも死を拒んだのだから。いや、違うな。あいつには仲間がいるか。俺には何もない。俺は一人エニエス・ロビーで死ぬ身だった。俺の生きたいと言う叫びは見開きにすらならず、サイレンサー付きのピストルの銃声にだって消されてしまうだろうに。
孤独に一人半額のお惣菜を探す俺は、ドブネズミと何ら変わらない。死にたくはない。これ以上何も否定されたくない。何も奪われたくない。老いたくない。ゆっくりと近づく死は怖い。生きたくない。死にたくない。俺は何をしたい?何のために生まれた?理由は無い。目的もない。生の輪郭のない肉として、無能が横たわっている。