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2020年のエンターテイメントを殺す


我々がもっと緊密になれば、互いにもっと好意的になるとでも?


リアリティーショー「テラスハウス」の出演者死去の報道を見たとき、社会学者マーシャル・マクルーハンのグローバル・ヴィレッジに関するインタビューでの皮肉を思い出した。


あれから一年経った。

もう一度、エンターテイメントの在り方を問い直すべきではないだろうか。








エンターテイメントは内側に閉じない


私がエンターテイメントを思うとき、それはいつも内側に閉じない。
エンターテイメントは、いわば、不要の遊戯にすぎない。
水や食料と違い、生活に不可欠ではないし、それがなくても私たちは死なない。

しかし、この遊戯はいつも生活に影響を及ぼす。エンターテイメントは生活に瓜二つな形をとり、生活にはないメッセージを伝えるメディアとしての役割を果たす。



1952年仏の映画監督ルネ・クレマンの名画「禁じられた遊び」はそうした遊戯を描く。

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少年ポーレットと戦争孤児のミシェルは、愛犬を水車小屋に埋葬する。ポーレットはミシェルを喜ばせるために十字架を盗みはじめ、二人は葬式ごっこに没頭する。



彼らにとって、この葬式ごっこは、戦争の惨禍を受け入れるための儀式であったに違いない。
つまり、死(≒大人が行った戦争の代償)という理不尽に対して、少年少女が、十字架というアイテムを集め、「葬式」という遊戯を行うことで、受容しよう試みる物語なのだと考える。



アンコントローラブルな状況に対峙するために、構造が相似する「遊戯」(=コントロール可能)を設定し、消化する、これがエンターテイメントの醍醐味ではないかと考える。
生活は大概理不尽で、意味などない。私たちがそれを受け入れるためには、生活を写し取り、何かしらの虚構を付与した構造の消化を通じて、生活自体に意味付けを行うことが重要なのである。



映画を見て勇気をもらった。
音楽を聴いて前向きな気持ちになった。
本を読んで夢が見つかった。


エンターテイメントの醍醐味はそこにある。
エンターテイメントは内側に閉じず、私たちの生活を意味づける。それだけではほとんど無意味でモノクロな私たちの人生に、重みと色彩を付与するのである。






インターネットの加速度とコンテンツの4類型


インターネットはコンテンツの限界費用の低減に貢献し、エンターテイメントの類型を再定義する。



15世紀、活字社会が始まる。
ドイツのグーテンベルクが活版印刷術を発明すると、書物の限界費用は下がった。これにより聖書が普及しのちの宗教改革を引き起こしたり、ルネサンス、科学革命を引き起こすことは世界史の授業で習ったとおりである。


20世紀に入り、電気信号の時代が始まる。
インターネットは活字社会以上にメディアを加速させ、限界費用を引き下げた。そして回線速度が向上すると、生産・消費がより不可分になり、体験が最適化され、現実と虚構はほとんど不可分になる。




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つまり、回線速度が向上した世界では上の4類型にコンテンツが分類されるとここでは想定したい。

①事実型は、学術的な論文や報道のように、"現実"の構造の中で消費される"現実"のことを指す。ここではあくまで真実性が重視される。

②フェイクニュース型は、神話や都市伝説のように、"現実"の構造の中で消費される"虚構"のことを指す。つまり、一般的に科学的な根拠は持たないが、特定のレイヤーの人々の中で"現実"という構造で捉えられており、①と同一視される。

③物語型は、ディズニー映画や絵本のように、"虚構"の構造の中で消費される"虚構"のことを指す。つまり、それが"現実"とは異なるという共通認識を形成しながら、それを楽しむことができるコンテンツである。

④リアリティーショー型は、Twitterのタイムラインやテラスハウスのように、"虚構"の構造の中で消費される"現実"の事を指す。つまり、③と同じプラットフォームやコンテンツ形式をとるが、実在の人物や、出来事に紐づき、"現実"そのものが実際には描かれているコンテンツである。



インターネットの速度が加速し、現実と虚構の差分が曖昧になった世界では、②と④が急激に成長する。この実例については枚挙に遑がないので他に譲りたい。








リアリティーショーの限界

エンターテイメントは、物語型とリアリティーショー型に分離し、後者が急激に成長しつつある。
しかし、リアリティーショー型のコンテンツは攻撃性と創造性に問題を抱えることを指摘しなければならない。


攻撃性の問題は、上述した、木村花さんの件で露呈した。
リアリティーショーであるテラスハウスに出演した彼女は誹謗中傷を受け続け、ある日自ら命を絶った。このことは海外メディアでも取り上げられ、社会的に大きな衝撃を与えた。

私自身テラスハウスが好きで毎週観ていたし、彼女のインスタグラムもフォローしていたため、一年前報道を見て衝撃を受けた。
彼女が亡くなった日の深夜から早朝にかけてあげられたストーリーも未だに脳裏に焼き付いて離れない。


彼女の死の理由は無論、誰にもわからない。
しかし、このリアリティーショーを起点に大量の誹謗中傷が彼女に降り注いでいたことは事実である。彼女の本業である「女子プロレス」(典型的な物語型である)とは異なり、現実を描いているという体裁を取るこのコンテンツのは、彼女の一挙一動に対して批判を引き起こした。
また彼女の死後、この誹謗中傷の刃の向き先は番組制作者や出演者に向いた。1年経った今になっても、共演者のSNSに非情な中傷コメントがつくのを見かける。





これが構造的欠陥の問題であることを忘れてはいけないと私は考える。当然誹謗中傷を行う人々は許されないが、リアリティーショーの構造自体に問題がある。
"虚構"の構造をとってしまう以上、刺激的でセンセーショナルに見えるよう加工したコンテンツの方が多くの人に見られる。その上、"虚構"の構造である以上、学術論文と異なり、エビデンスも査読も不要であり、その「切り取り」の正確性は見過ごされる。
一方で、コンテンツの中身は"現実"という体裁を取る以上で、オーディエンスの批判や感情は、"現実"の人間に及ぶ。そしてそれは非常に距離が近く、直接的な方法で及ぶのである。(SNSで容易にフィードバックができる状況にある。)




私はマクルーハンの意見に大方合意する。

電気信号は私たちの間の壁を取り払い、急激に距離を近づけた。しかし、そのことは同時に私たちを攻撃的にしている。このことは私たちが本能的にもつ部族性の側面からして避けられないのではないか。



もう一つの問題は、創造性の問題である。

エンターテイメントの醍醐味は、上述したように、内側に閉じず生活に意味づけを図れる点である。
"リアリティーショー"型のコンテンツを突き詰めれば、それは限りなく生活そのものに近づく。生活自体が生活を意味づけるという行為は自己言及的で、貧相である。


つまり"Dream Comes True"的な世界観はディズニー映画でしか描けない。テラスハウスでは描けないのである。つまり、リアリティーショーで夢という題材を取り扱うならば、"Few Dreams"が"Come True"するという現実に比例する形で、大半は叶わない夢に照準を当て(あるいは低いレベルでの達成)、共感を狙うコンテンツになる。そうした悲観的なコンテンツがあふれた社会を想像したときに、私は決して豊かだとは思わない。


つまり、希望とは、虚構が現実に付与するものである。だから、虚構としてのエンターテイメントが必要である。





リアリティーからイマーシビティーへ


2020年のリアリティーショーを殺せ。

これは電気信号時代のエンターテイメントに関わる者へ残された最後の課題で責任であるかもしれない。
物語が枯渇しつつある社会で、虚構を再実装できるのか問い続けなければならない。リアリティーショーを刺さなければならない。






ただ、リアリティーショーが普及している世界で、物語型のコンテンツを投げても、「嘘くさい」と一蹴されて終わる。
私たちはエンターテイメントを消費するとき、現実の生活との相似性を前提としているため、私たちは本能的にリアリティーショーを求めてしまうのである。








方法は二つである。

リアリティーショーに虚構を付与するか、物語にリアリティーを付与するかである
いずれにせよ、リアリティーショー型のコンテンツと、物語型コンテンツの最適な加減を模索する必要がある。可能な限り攻撃性が排除され、創造性が埋もれないコンテンツこそが豊かなエンターテイメントたりうるのである。





そこで、リアリティーという言葉を私は捨てたい。

現実との距離をゼロに近づけることは必然的に私たちの攻撃性を誘発してしまうのである。
暮らしの中ではインターネットの加速度を通じて部族社会へ回帰せざるをえないとしても、その中でエンターテイメントが果たすべき役割はむしろ部族社会とは真逆の非攻撃的で希望に満ちたオアシスを生成することであるにちがいない。







私はリアリティーという言葉に変えて、イマーシビティーという言葉を使う。
エンターテイメントは生活そのものに一致する必要はない。あくまで相似な構造で、"没入"させればよいのである。





いま、イマーシブシアターと呼ばれるような没入型の体験コンテンツが増えていることは、おそらくこのコンテクストと無関係ではない。


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