記憶

令和が幕明けた頃、祖父が亡くなった。
そして、令和2年が始まって間も無く、祖母が亡くなった。


祖母はかれこれ10年近く認知症だった。



10年ほど前は、毎朝、犬の散歩に裏山へ走りに行くほど元気だった。だがある時、何かの拍子で転んでしまい、腰を痛めて一時寝たきりになった。

それから、急激に認知症が進んでいった。
腰は治っても認知症は不可逆的に進行していくばかりだった。徘徊や、食事を忘れたり夜中に暴れるなど、一般的によく聞く症状や事態は一通りあったようだ。祖父も気が狂いそうだと言っていたのを覚えている。

だが、僕がもっとも衝撃を受けたのは、祖母に僕自身を認知してもらえなかった時だ。

「どちらさん?」と聞かれ、何度か説明しても、的を得なかったような返事が返ってくる。そして、再び同じ質問に戻っていく。いくら根気よく説明しても思い出すことはなかった。(結局、亡くなる直前は僕の叔父=祖母からしたら息子のことも「どこかで見た気がする」止まりで、はっきりと認識しているのは自分の娘つまり僕の母だけだった。)

それからは、とても遠くに感じるようになってしまった。目の前に居るのは間違いなく祖母なのだが、これまで積み重ねた時間は断絶してしまい、宙ぶらりんになった僕は、掴めるものがなかった。


母が弟の出産で入院する時、祖母がうちに来て作ってくれた金目鯛の煮付けは美味しかった。

阪急の梅田駅でよく待ち合わせて映画を見に行った。

キッチンで換気扇を回しながらタバコを吸っている姿をよく覚えている。

中学生の頃に1人で遊びに行った時、作ってくれたスープカレーも美味しかった。

油絵を描く人だったので、2階はちょっとしたアトリエだった。祖父が撮った風景写真を見ながら。


とりとめもなく記憶が浮かんだ。だが、祖母の記憶から僕は居なくなり、あの頃の祖母もまた居なくなってしまったのだった。

人は一体いつ死を迎えるのだろう。

どこかで聞いた「たとえ身が滅んでも、記憶の中で生き続ける」という言い回しが本当なら、記憶から消えてしまった僕は死んでしまったのだろうか。身は滅んでいないが、祖母はもはや記憶の中の存在となってしまったのだろうか。



そのまま何かが堆積することはなく、月日は過ぎていく。昨年のお盆に会った際は、母と弟、そして僕の3人で訪ねたのだが、祖母は娘が彼氏を2人連れてきたと思い「どっちかにせなあかんよ」と言っていて、寂しくもありながら少し笑ってしまった。

そして、2020年が始まり数日がたった頃、老衰で息を引き取った。



葬儀の際、棺で眠る祖母の顔は、よく見知ったあの頃の表情だった。
きっと、みんなの事を思い出しているんじゃないかな。そんな気がした。

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