あとがき無料公開「続12人のクライエントが教えてくれる作業療法をするうえで大切なこと」


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あとがき

 人生は映画でもなければ小説でもない.障害を呈したクライエントの再起をかけた「物語」は,クライエントの主観で紡がれるものであり,第三者が作り上げるものではない.
 人は,自らの人生に意味づけを行い,物語としてまとめあげる.作業療法士は,クライエントが紆余曲折を経ながらも,その物語が肯定的なものになるよう,技能面にとどまらず,経験の解釈についても働きかける.それは確かに大切な支援の一つである.
 しかしながら,作業療法士がクライエントの叙述的世界を勝手に作り上げ,その世界に陶酔してしまうと,物語の成立に不要な情報を切り捨て,作業療法の効果を過大解釈し,現実の中に含まれる解決すべき課題が見えなくなる.
 また,作業療法は解決すべき課題を作業遂行という人−環境−作業の連環の中に見出すがゆえに,採用する手段が状況により無数に存在する.自分が選択した支援内容がどのような結果をもたらしたのか.そもそもそれは本当に考えうる最良の選択であったのかを検証することは難しい.また,その選択はセラピストの興味関心の影響を受けやすい.作業療法は極めて不確実性の高い仕事である.
 だからこそ,目標とアウトカムを明確にすること,その意思決定をクライエントと一緒に行うこと,目標達成に向けたあらゆるプロセスを協働的に進めることが大切になる.だが,それを実現するためには様々なスキルを必要とする.また,病期や障害の種類・程度によっては,理想的なプロセスを踏むことができないクライエントもたくさんいる.
 このような作業療法の不確実さや難しさをどう受け止めるのか.自己をどう律し行動するのかはセラピスト個人の裁量に任されている.推論や根拠がなく経験則で立案されたプログラムも,必要な情報を網羅した上で推論を行い,採用可能なエビデンスを吟味して立案されたプログラムも,請求できる診療点数は同じである.
 近頃,「自己研鑽」という言葉をよく聞くようになった.あと数年すると作業療法士の需要と供給の数が逆転し,いよいよ供給過多の時代に突入するといわれている.これまでは国家資格さえ取得できれば比較的自由に職場を選択することができた.しかし今後は,国家資格に加えて,セラピスト個人の付加価値がより求められるようになるかもしれない.自己研鑽に関心が向くことは当然の流れといえる.
 現在は,一昔前には想像できなかったほどに,簡単に膨大な情報にアクセスすることができるようになった.しかし,どんなに簡単に情報を入手できる時代になろうとも,「入手しようとする」のはセラピスト当事者であり,選択はあくまで個人の裁量に任されている.簡単に情報を入手できる状況によって,研鑽する人間としない人間の格差は拡大しているのかもしれない.


 昨年の夏,駅前で突然声をかけられた.小学校時代を共に過ごした旧友であった.卒業して以来30年ぶりの再開である.
 懐かしさの中,お互いの近況や仕事上の興味関心について立ち話をしていると,「お前は意思が強くていいよな…俺はあと何日仕事したら休みになるとか,あと何日働いたら給料日とか,それだけがモチベーションだよ…」と力なく笑った.
 彼はこれまでに7回転職をしたらしい.この春から勤務している会社の仲間とは相性が良く,手取りが少し増えたとのことである.数分の後,「しんどいことばかりだけど,お互い頑張ろう」そう言って懐かしい時間は終わった.
 色々な人生があり,他者が何かを言う必要もなければ権利もない.私は私の時間を生き,彼は彼の時間を生きている.しかし会話の中で1つ気になった言葉がある.それは,「お前は意思が強くていいよな」という言葉だった.以前にも何度か「やりがいのある仕事が見つかった人は羨ましい」と他人に言われ,強い違和感を覚えたことがある.あのときと同じ,うまく言葉にできない感情が私にまとわりついた.
 私はやりがいのある仕事を探したことはない.意思の強い人間だと思ったこともない.高校時代に友人の兄が理学療法養成校に入学したことをきっかけに作業療法を知り,その世界に僅かな興味を持っただけである.入試の面接で動機を質問された際も,人に語ることのできるようなストーリーは持ち得ていなかった.
 養成校に入学した当初,勉強に対するモチベーションはそんなに高くなかったと記憶している.しかしはじめて行った数日間の実習で,あるクライエントが二人きりになったとき涙ながらに語った


「私なんか死んだほうがまし.毎朝起きるとまだ生きていたことにがっかりする…」


という言葉が刺さった.今も刺さったままでいる.
 クライエントは軽度の片麻痺を呈しながらも,歩行レベルで病棟内のADLが自立していた.見学する前に,ステーションでは「麻痺もほとんど良くなったしADLも最近自立した順調な人だから」との説明を受けていた.そのときは何の違和感も感じなかった.
 当時の私は,自分が将来生業にする作業療法という仕事を「対象者が社会復帰できるよう,可能な限り機能障害とADL能力の改善をはかる仕事」だと思っていた.しかし私の目の前で死にたいと泣き崩れていたのは,機能障害もADL能力もかなり改善した人であった.
 自分が考えていた作業療法ではクライエントを救えないかもしれない.しかしあまりに未熟で,どうすれば良いのかはわからなかった.
 実習の最終日,「本当に○○さんのリハは順調なんですか」と質問した.何となく触れてはいけないものに触れるような気がした私は,緊張しすぎて過換気ぎみになり,情けないほど声が震えた.返ってきた指導者の言葉がどうしても思い出せない.しかし最後に「まぁ…この仕事は悪いことさえしなければ大丈夫,安定しているから楽にいこう」と声をかけられた.
 指導者の先生は,思いつめた表情の私を気遣い,気持ちをほぐそうとしてくれたのだと思う.しかし私は悶々としていた.あのクライエントの言葉と指導者の言葉の整合性をはかることができなかった.
本気で死にたいとまで思う人を支えるには何が必要なのか…今でも明確に答えられない自分がいる.しかしあの日の帰り道,「これ以上勉強したら本当に死んでしまう」くらい努力をしなければ,クライエントの目をまっすぐ見ることができないと思った.
 あの日から20年以上の時間が経った.その道程で少しずつ作業療法を好きになることができた.あの日の言葉が刺さったまま作業療法を好きになった.
 どんなに探しても「やりがい」や「強い意思」は見つからない.自分の課題に真摯に取り組んだ結果,何かを成すことができたかもしれないというほんのわずかな自己認識こそが,「やりがい」と呼ばれる感覚の源泉ではないか.「やりがい」を探す前に,今自分がするべきことを明確にし,課題の達成に向けて行動することが先である.「強い意思を持っている」と形容されるような状態も,多くの場合は上述した行動の習慣化である.
 時流を読み,先を見据え,計画的に準備をすることは大切である.しかしまずは目の前のクライエントに対して,自分ができること,自分がしなければならないことに夢中でいることがあらゆる前提である.次に何を学ぶべきかはその時間が教えてくれる.

 どうか,不確実さと難しさを受け入れた険しい道程で,謙虚さを内包したやりがいを感じることができるように,あの日引き受けた痛みとやりがいが折り合うように,折り合いの先に生まれる行動がクライエントの現実と物語の支えになるように.



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続12人のクライエントが教えてくれる作業療法をするうえで大切なこと

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