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”嘘つき”からの脱却

突然ですが皆さん心理学は好きですか?

僕は専門的な知識はありませんがそこそこに好きです。
演劇関係のかたも、人と人とのコミュニケーションとはなんなのかを紐解く鍵になるのではないかと、勉強したりすることが多いかもしれません。

ただし、僕はこの心理学ほど厄介なものはないと思っています。
極端な話、他人を思うように動くよう操作したり、自己の心理に囚われて身動きができなくなったりすることもあるからです。自己の成長のためではなく、他者の評価のために、ビジネス(功利)的使われ方をしがちだからこそ、それが正道ではないと感じるからです。
同時に、表現においては、心理学だけですべてが説明できるほどの万能薬にはなりえないからです。心理学の論理は後付けの解釈に近いところがあり、解法の1つにはなっても全体を掴むことが出来ないからですね。

といいながらも今回はそんな心理学の観点から行動を分析し、
自分も身に覚えがある、”ウソ”にまつわる2つの話をしていきます。

1.自己保存のウソ

時々、人間は他人にウソをつきます。
また、自分の心にもウソをつきます。

   自己暗示や自己催眠と言われるものとして、苦手なものを乗り越えるためのポジティブな手段としてもしばしば用いられますが、
一番利用されるのは自分の非を認めない、あるいは認めたくないとき、
自分が否定されることを拒否するため
に反射的に使われてしまう、
自己保存のためのウソです。

   自分のミスを責められた時に別の人や物事に責任転嫁したり、
反射的に違うと言い切って何も聞き入れなくなったりしてしまう状態です。

 自分の心を守ろうとする心理(=保身、自己愛、よく見られたいという思い)が、自分をガチガチの鎧で覆う道を選んでしまいます。

 これは一見、自分の心理に対してウソをついていないように思われるのですが、自分に対する干渉の全てを拒否してしまうようになると、どんなアドバイスも聞き入れることが出来ない狭量な精神構造が当たり前になってしまうのです。
 あとはもう、本心の言葉なんてすっかり忘れ、口から出てくる聞こえのいい虚飾ばかりの言葉が板について、それ以上人間として成長することが出来なくなってしまうスーパーアーマーアルマジロの出来上がりです。
    そして、なぜかこういう偏狭者が、それが強さだと受け取られてうっかり組織のトップになってしまう不思議な国に私達は住んでいます。本当になぜなんだ…

 自己保存している人間、僕はダサいと思います。八方美人なんて捨てちまえ、保身に走るな責任を持て、と思います。
 というより、昔の僕はまんまそれでした。うまく立ち回ることばかり考えた保身型ヒューマノイドマンで生きていくフリをしていたように自分を振り返って思うことがしばしばあります。。。

 抜け出すきっかけはやはり、演劇と出会って、真剣に自分に関わってくれる人が増えたことだったと思います。WS後に、チャレンジもせずヘラヘラしていた僕をガッツリ怒鳴ってくれた大好きな先輩俳優のKさん、沢山の時間をかけて、僕に窮地を与えてくれた今の演出には、頭が上がりません。(もっと良い俳優になってお返ししたいですね…)


2.良い子のウソ

 飲みの席だったり、上下関係や利害関係が生ずる場所や人物の関係性において、本当は嫌だと言いたいのに、言うことを(なかば)許されない状況というのは誰しもが体験したことがあると思います。

 このような際に自分で自分の心にウソをつくこと繰り返していると、そのうち自己矛盾に耐えられなくなって、体調や精神を崩してしまったり、酷い時にはウソをつくことに慣れてしまって、自分の本心がウソで、ウソこそが自分の本心だと信じ込みだしてしまうことすらあります。

 このようなプレッシャーの中で過ごすことが多い人は、自分の意見をなかなか言えず、言う機会はどんどん少なくなってしまいます。失敗を恐れるあまりチャレンジできなくなっていきます。
 自分で自分の心理を騙しているのですから、ものごとを感じ、判断する力、論理的にものごとを考える力まで損なってしまいます

 自分で自分のことを騙すことが常態化すると、自己の行動を説明し、論理化することもできなければ、ものごとを正しく認識すること=客観性が不十分で未発達のままになってしまいます。受動的で大人しい、親や親戚がよく言う”良い子”であることは小さい頃なら美徳とされますが、そのまま社会に出てしまうと自分から発信することが出来ず、しまいにはSOSを他人に発信することも出来ないままに倒れてしまいます。
 本当は、多分すごく優しいひとです。他人の痛みや嫌悪がわかるからこそ、そういったものを表に出さないわけですから。でもそれは同時に自分が痛みを感じたくないからでもあり、ちょっとずるい側面もあるわけです。

 自分で考える力を養うことは大事なことです。そういった傾向が自分にはあると気づけている人は、自分が感じたこと、考えていることを文章化したり、絵に描いたりといったアウトプットをしていってください。
 そういった大人しい人物が身近にいる方も、本当はどうしたいのかという本心を出してくれるように付き合っていくのが大事なのだと思います。とても大変で根気がいることかもしれないけど。

 
3.せっかくなら野道を歩こう。茨で傷ついても。

   俳優であるかたもそうでないかたも、自分にも相手にもウソをつかず、失敗したり誰かを傷つけたり自分に非がある時は素直に謝り、正々堂々としてたほうが受ける痛みも多いですが、その分経験値は溜まりやすいです。
 人間、自分の心理は結構簡単に騙せますし、ちょくちょく自分自身の本心をも騙そうとしてきます。まず自分の醜さと向き合うことをしなければ、成長することは出来ません。いつだって誠実にいられる人間は少ないのだから。だからその誠実さが眩しいのだから。

 というかそもそも本心というものすら論理で後付することでしか認識できない脳の作用程度のもので、本当に必要な判断基準は、脳の心理よりも身体の感覚、肌感覚で捉える感覚、俗にいう第六感や予感のようなものだったりします。(心理でなく生理ですね)
 嫌な予感がするからここから先に踏み込むことはやめようとか、ハッと気づいて振り返ったり足元の溝を避けたりとか、そういう感覚ってあながち馬鹿にできませんよ。そして無理に頭を使うことから離れれば離れるほど、そういった感覚は研ぎ澄まされていきます。考えすぎや論理や実利で物事を推し量りすぎな人間よ、書を捨てよ、町へ出よう

   心と成長の話をしていると、夏目漱石の「こころ」を思い出しますね。精神的に向上心のないものは、ばかだ…

ばかはばかなりに、いい人間になってゆきたいものです。
散文的な終わりになり本論がぶれてますが、ご容赦ください。
かきたいことって書いてると無限に出てくるね。

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