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群馬県高崎市 少林山 達磨寺と古墳とブルーノ・タウト

 前回、群馬県の総社古墳群を見てまわった話を書いたけれども、その前日には、せっかくなので高崎にある達磨寺に行ってきた。今回は、その時のことを書きたい。

 JR高崎駅から、バスで揺られること、20分強。(バスは1時間に1本ぐらいしかないので、行かれる時には ご注意を。)達磨寺に到着。週末だったし、高崎の観光名所の一つなので、バスの乗客の多くがここで降りると思ったのだが、降りたのは、自分たちともう一人だけであった。入口の総門に向かうと、我々以外、誰もいない。雰囲気のある総門の写真を撮れば良かったのだが総門の先に永遠と続く階段に気をとられて、写真を撮るのを忘れてしまった。いったい、何段、階段を登らなければいけないのだろう?門をくぐって早々、重い気持ちになりながら、光があまり射さない うっそうとした階段を登る。階段を半分ぐらい登ったところで、太ももの裏が、ピキッとなり、たじろぐ。比較的よく歩く方だから、それほど足は弱くないと思っていたのだけれど、平地を歩くときと階段を登るときとでは、使う筋肉が違うのだろうか。それとも昨今の世情で家の中にいることが増えて、体がなまったのだろうか。多分、その両方だろう。しかし、ここで立ち止まるわけにもいかないので、気力を出して登りきる。登りきると、少し開けた空間になっていて、大講堂や池(放生池)があり、参拝客の姿が何人か見え、バス停で一緒に降りた女性もすでにそこにいた。どうやら、総門の階段から登ってくるより、総門の右側から伸びる車用の道を登った方が、楽にここに到達できるらしい。

放生池の鯉たち

達磨のたくさん並ぶ本堂に行くには、ここから更に階段を登らなければならない。とはいえ、総門から伸びる階段より短いし、陽の光も射すので、憂鬱ではない。登りきると、達磨がたくさん並ぶ、写真でよく見る本堂がついに現れた。当然、写真に撮ったが、達磨に名前など入っているので、一応、プライバシー保護ということで、ここにはupしない。代わりに、階段を登り切って、振り返ったところの風景をupする。↓

達磨寺の本堂の反対側を望む、見晴らしが良い

ここから更に上にいくと、古墳があるというので、古墳を目指す。本堂より上の方には、こんな風に新緑の風景が広がっていた。↓

達磨寺本堂裏の新緑

目指す古墳は、この新緑の中にあった。↓

達磨寺の中にある天頭塚古墳(少林山2号古墳)


この辺りは、群集墳になっていて、奥にもまだたくさん古墳があるようだが、地すべりの多い場所だったようで、地すべり対策の際、保存状態の良いこの古墳をこちらに移築・復元したとのこと。この古墳は6世紀ごろのものだという。石室の入口には、アクリル板だかガラスだかがあって、中には入れず、中もよく見えなかった。この辺りを歩くと、古墳の葺石の残骸なのか何なのかよくわからないが、石がゴロゴロとあった。

目的の古墳を見たので、下っていくと、洗心亭が見えてきた。ドイツの建築家、ブルーノ・タウトが2年以上、暮らした場所である。タウトは、京都か東京辺りに滞在していたと思い込んでいたので、群馬県の高崎、それも達磨寺の山内に滞在していたと知って驚いた。しかも、想像以上に小さい場所であった。4帖半と6帖二間の建物らしい。受付に声をかければ、中も見させてもらえるらしかったが、建築の専門家でもないし、お手を煩わすのは恐縮だったので、外観からだけで失礼した。↓

階段下から洗心亭をのぞむ。タウトは、同行者のエリカとここで2年以上過ごした。

洗心亭のあるところは、達磨寺の山内でも、静かな場所で、新緑がきれいだったが、鳥のさえずりが凄かった。さえずりというより、もはや鳥同士が大声で話しかけあっているような感じであった。鳥の声は凄かったが、新緑のときは心地よい空間である。とはいえ、ここで夜や冬を越すのは、住職がたとえいい人であっても大変だったのではないかと想像した。

 家に戻ってから、タウトの洗心亭での暮らしが気になって、図書館でタウト関係の本を何冊か借りて読んでみた。『忘れられた日本』(ブルーノ・タウト著、篠田英雄編訳、中公文庫、2007年)には、洗心亭での暮らしや、そこで感得した日本家屋の特徴などが書かれている。洗心亭が、碓氷川や榛名山方面の絶景を望む設計になっていないことを疑問に思ったタウトが、色んな人の話を聞いて、洗心亭が風水の観点から設計されていて、それゆえ、このような設計になっていると知り、風水の研究をしてみた話や、台所に竈がなく、その代わりに煉炭火鉢と七輪があって、それでエリカが調理をした話や、日本家屋は日本の風土、とりわけ夏に合わせて作られていると看破した話などが面白かった。洗心亭の冬は、「障子や雨戸をまるで船の索具のようにゆすぶる激しい北風」が吹いたようだが、じきに慣れ、火鉢や煉炭ストーブ、ときに石油ストーブを焚いて暖を取ったという。タウトは、古墳についても書いていて、洗心亭の傍らに薬師如来を祀った古墳があると言っている。さきほどの天頭塚古墳(少林山2号古墳)が今の場所に移築・復元されたのは平成の時代だから、タウトの時代はもう少し上の方にあったはずで、「洗心亭の傍ら」ではない。気づかなかっただけで、洗心亭の横に小さな小さな古墳があったのだろうか。確かに少しこんもりとはしていたが。達磨寺のHPで山内図を見てみると、洗心亭の真横に「薬師塚」と書いてある。タウトのいう「洗心亭の傍ら」の薬師如来を祀った古墳とは、ここのことだろう。しかし、これは本当に古墳なのだろうか。ネットで調べてみると、古墳に詳しい『古墳の森』というサイトに、少林山古墳群の記事があり、そこの古墳地図では、洗心亭の真横の薬師塚が少林山台遺跡B号墳となっていて、このB号墳と、B号墳の石室内の薬師如来像の写真が掲載されていた。やはり「薬師塚」は古墳で、タウトが書いたのは、ここのことだったのだろう。洗心亭そのものに気をとられて、この薬師塚に気づけなかったのは、とてもくやしい。次回行くときには、この古墳もしっかり見たい。達磨寺のHPを見ると、大講堂の横の瑞雲閣に、ブルーノ・タウトの展示室もあったらしい。次回は、ここも訪れたい。ところで、先ほどの古墳サイトによれば、1935年に群馬県下で、古墳の一斉調査が行われていたらしい。1935年には、まだタウトは洗心亭に滞在中だったから、タウトも、地元の人たちから、古墳の話や古墳調査の話を聞いていたのではないだろうか。

(参考資料
①『日本文化私観』ブルーノ・タウト著、森儁郎訳、講談社学術文庫、1992年
②『忘れられた日本』ブルーノ・タウト著、篠田英雄編訳、中公文庫、2007年
③『タウトの撮ったニッポン』酒井道夫・沢良子編、武蔵野美術大学出版局、2007年
④『ブルーノ・タウトの工芸』LIXILギャラリー、2013年
⑤ HP『古墳の森探検日誌』)


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