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眠剤は200錠飲んでも死にません

眼科の診療は18時30分まで。17時30分の就業チャイムを聞いて、パタパタとPCをたたみ、電動自転車で車道を爆走する。18時13分に眼科受付に飛び込んだ。

診察まであと少しという所で電話が鳴った。姉からだ。姉からは滅多に電話がないよんどのことかと出た。

「大変事件!お父さんが薬を飲んだ!」

お父さんと言うのは、姉の旦那だ。旦那がただ、薬を飲むのなら大変なはずがない。「どう言うこと?」と言うと、「眠剤飲んだ」という。

「ああ・・・」一瞬で納得した。

義兄は悩んでいた・・・と思う。寡黙な人で、姉と結婚してから40年以上の付き合いになるが、義兄と会話が成立したのは、40年で1日24時間分にも満たないと思う。

姪が生まれて重度の知的障害だとわかったのが2歳の時。長ずるにつれて歩行が困難になり、30歳を過ぎて、体の拘縮が始まり、初めてSENDAと言う難病指定にもされないほど、稀な病気であることがわかり、今ではほぼ寝たきりで胃ろう。呼吸困難で痰吸が常時必要な状態だ。

義兄は、定年退職後、働く姉の代わりに娘の介護を一気に引き受けていた。主夫としてご飯を作り、車椅子を押して散歩に出て買い物をし、おむつ交換、痰吸等、姉が帰るまで介護をしていた。

自身も、脳腫瘍、がん、を患っても、娘の介護のために、手術、リハビリを頑張って、いち早く介護戦線に復帰してきた。数年前、胃がんが再発した。手術はしないと抗がん剤治療をした。

1ヶ月前、その義兄が救急搬送されたと連絡があった。自転車で病院に行った帰り道に迷って、熱中症になって倒れていたという。よくよく聞いてみると、病院からの帰途とはあらぬ方向の土地でのこと。当日は、点滴をして帰らされて来た。夜にはビールがうまいと言っていたと姉は呆れていたが、道に迷うとはどういうことか?嫌な予感がした。

その直後、普段の食事の支度で「ピーマンの肉詰めの作り方がわからない」と言いだしたので、検査をしたら、脳腫瘍の再発だった・・・。

前回発症の時は、「アサリの酒蒸しの作り方がわからない」・・・だった。主夫である義兄の、日常行動の記憶喪失感はいかばかりか、想像するだけでも震えがくる。

姪の呼吸の介助には医療行為である「痰吸(喀たん(かくたん)吸引)」が必要だ。介護ヘルパーでもこれを行える資格者である必要がある。合わせて、体位交換などには力がいることから、姪の介護ができるヘルパーさんは男性である。

お世話になっているF氏は気のいい男性ヘルパーで、おばちゃん的なコミュニケーションを取る人でおしゃべりな人だ。姪にもよく声をかけながら介護をしてくれる。意思疎通がほとんどできない姪に向かって、勝手な会話を作り出して小芝居を演じている。

義兄は寡黙な人であるから、姪に話しかけるのは最小限だ。義兄はこのF氏が好きではない。

F氏が介護についてくれるようになったのは3年くらい前か・・・。当時姉は、両親で昼夜交代の介護状況に危惧を感じ、日頃から生活現場で介護をしてくれる人をつけておく必要があると考えた。ましてや、義兄はがんを患っている。何かあった時に、医療行為に対応できるヘルパーさんを急遽手配することは難しい。要介護家族がいる家庭には必須の危機管理だ。姉は区内を奔走して、F氏をやっと見つけてきた。

ところが、義兄は、このおしゃべりなF氏が大事な娘の介護をすることが我慢がならなかった。「自分が毎日家にいて、介護できるのにヘルパーなんていらない」と、姉がやっと見つけてきたF氏を勝手に断ってしまった。

姉は怒り心頭だ。元々、寡黙な義兄とは普段から意思の疎通がままならない。姉がいろんな相談事をしても「ああ」とか「いらないだろ」とか、意思決定に至るプロセスが語られることなく結果だけ伝えられる。姉は気長な方ではないし、その上、仕事と帰宅後の介護では、夜中も1時間以上連続で眠ることができない生活が数年続いているので、「は?」「だから何?」とかこちらもコミュニケーションへ時間をかけるほどの気持ちも体も余裕がない。

今回、義兄の脳腫瘍再発がその「何かあった時」だった。義兄の記憶喪失は、料理だけではなく、娘の介護方法もわからなくなっていた。胃ろうのチューブが刺しきれず、液体食を衣服に全て吸わせてしまっても「俺じゃない」と逆ギレするようになってしまった。

姉は、事ここに及んで、すでに断ってしまっているF氏に再度介護の依頼をした。コロナ禍で、ヘルパーさんを断る家庭もあるらしくF氏のスケジュールが空いていて、F氏は快く対応してくれた。

脳腫瘍の再発が発覚した時、義兄は「手術はもうしない」と言った為、姉は「本人の意思に寄り添うしかない」と言い、緩和ケアに対応するかと漠然と思っていた。

ところが、医者からは「開頭手術しなければ麻痺して寝たきりになる」と伝えられた義兄は、娘の在宅訪問医師にもセカンドオピニオンを受けた。そこでも、手術を選択しない場合の予後を聞いて、「あなた(姉)に迷惑をかけるわけにはいかない」と言い、これまで開示されていなかった家計資産を初めて姉に開示した。そして、手術をするかしないか、来週の通院で意思を示すことになっていた矢先の週末金曜日の服薬事件だ。

冒頭の電話を受けた時点に戻る・・・。姉は慌てている。救急車を呼んだところだという。

私「Mちゃんは?」

姉「Fさんが来てくれている」

私「どうしたらいい?」

姉「ああ、どうしたらいいんだろう?私は救急車に乗って行く。来てくれる?」

私「わかった、すぐ行く!」

と言う会話を互いに早口、単語状態で交わし、電話を切った。

さて、私は眼科診察の一歩手前、このままキャンセルして向かうか?いや、もう救急車で運ばれている、姪はF 氏が見てくれている、なら、性急に動くことはない。診察を受けてから移動しようと考えた。診察を終えて駅前でさらに考えた。自転車で向かうか電車で向かうか、急いで向かいたいのに、駅の階段を行きつ戻りつしながら、咄嗟に判断ができない。自分自身もかなり動揺しているのを感じる。まずは止まろう。立ちすくんで考えた。この動揺で自転車を運転すべきでは無い・・・と、電車に乗った。

姉宅の近くまで来ると、赤色灯が夜の街並みに反射している・・・。電話を切ってから30分以上経っている。

「あれ?まだ救急車いる?」

思わず走った。姉は救急車の後ろで3人の警官に囲まれている。これは、加勢しないと!姉に近寄り腕を掴んだ。私の顔見て姉が泣き崩れたらどうしよう・・・。

振り返った姉は握り拳で、すごく怒っていた。

激おこだった・・・。

私に気がつくと「ああ!ありがとう!」と言った。救急隊員が「I病院へ向かいます。奥さん乗って行かれますよね?」と声をかけられ、姉は救急車に乗り込みながら「もう!殴ってやりたい!」と乗り込んで行った。自死を逃れた義兄が車内でフルボッコにされないか心配になった・・・。

そうだよね・・・すごく心配した後、ほっとした瞬間、なんで怒りが湧いてくるんだろう?

お巡りさんに「妹です。」と名乗った。まずは、中にいる姪とヘルパーさんが気になったので「中が気になるので、何かあったら声かけてください」と声をかけて家の中へ・・・。

F氏に「お世話になります」と挨拶をすると、大変な状況に慣れているのか、全く動じる様子はなく、「いやあ、びっくりしましたよ」と、状況を説明してくれた。通所施設から送迎バスを降りた姪を迎えるところから、F氏の介護が始まる。

家に入ると通常迎えに来る義兄が出てこない。気にはなったが、体調が悪くて休んでいるのかと、わざわざ声をかけることもしなかった。

夕方姉が帰宅したので、介護を交代し帰路に着いたところ、駅に着く前に姉から電話がかかってきた「Fさんすぐ戻ってきて!」と、戻ると義兄のそばに姉がいて薬を飲んだことがわかったので、すぐに義兄に「大丈夫ですか?」と声をかけると「大丈夫。水が飲みたい」と言ったので水を飲ませている間に姉が救急車を呼んだとのこと。

そこへチャイムが・・・。「警察です」姉が帰ったら電話をするようにと名刺をもらい、私の連絡先を聞かれた。生年月日まで聞かれた・・・。

部屋に戻ってFさんに名刺を見せると「え?警察?」。Fさんは、ずっと姪のそばから離れていないので、救急車に呼ばれた警官の姿も見ていない。

「どうしよう!あんた誰?薬無理やり飲ませたんじゃ無いだろうな!どっかで見た顔だな!とか言われちゃわないかな?」と小芝居を演じている。緊張感のないその姿に、張り詰めていたこちらの気持ちがほぐれてきて、「いやいや、大の大人に錠剤20錠以上飲ませることなんてできないでしょう」と返す。

「ばあちゃん呼んだ方がいいかな・・・」と携帯を見ながら独り言を言うと、「あ?お母様?いやあ、久しぶりだなあ・・・ちらし寿司ご馳走になったお礼がまだだった・・・」などと、これまた気の抜ける合いの手を入れてくる。

母は、足が悪いので車の手配をしなければならない、娘が仕事帰りにピックアップできるか、まず、娘にLINEを入れる。既読がつかない。電話も出ない。動きが決まらない中でヤキモキするのは精神衛生上良くない、母には連絡せず、娘と連絡がつくまで、とりあえず一旦落ち着こう・・・と、無理やり介護を延長させられたFさんと、冷凍パスタをチンして食べた。

ホントはこう言うのはいけないらしい。ヘルパーは、お茶ももらったらいけないぐらいの、変なルールがある。人のお世話をする仕事なのに、その人を取り巻く家族とお茶の一杯も飲めないルールってなんだろう・・・と思う。断るFさんには、ルールを無視して、無理やりパスタを食べさせた。

8時を過ぎた頃、娘と連絡がついたので、母に一報を入れた。母は「やっちまったな」的なトーンで「あらあ!」と言った。こう言う時にあまり動揺しないので助かる。内容的には深刻な話をしている横で、F氏が「ちらし寿司ごちそうさまでした〜!」と声をかけるので伝えると「何年前の話よ〜」と普通に応じるところが、なんか、とんでも家族だよな・・・と思う。

姉が病院から電話をかけてきたのは9時を過ぎてから。救急処置をして、今日は一旦入院することになったので、帰ってくるとのこと。最後に電話口で言ったのは。

「睡眠薬って200錠飲んでも死なないんだって!」

これは、皆驚いた。常識が覆ったようなインパクトだった。義兄は胃洗浄もせず、目が覚める点滴をして強制的に起こされたらしい。

病棟に移されたが義兄は、コロナ禍で面会はできない。帰り際に看護師さんに「何か伝えることありますか?」と言われ
「残念でした!言ってやってください!」
・・・と言い残した姉。
不安な中、散々待たされ、携帯は使っちゃいけないかとまんじりともせず救急外来の廊下で、ムカムカを募らせた姉の捨て台詞。

姪の介護生活は心身ともにしんどい・・・。
体力的にも、眠れない中いつ呼吸が止まってしまうかとピリピリと精神を尖らせての生活。精神的にもボロボロな中、それでも、生きようとしている命に寄り添う生活。
その中で、姉にとって義兄は戦友、同士だった。
「娘が生きようとしているのに、自分が命を捨てる・・・。」
それは、娘にとっても自分にとっても裏切りだと姉は捉えている。

本来なら・治る見込みの無い病に侵され、苦悩の挙句の自殺未遂・・・。
家族は、その絶望に思いを寄せ、本人しかわからない痛みに思いを馳せ、自分にできることは何なのかを問い、全力で支えよう・・・となる状況だが、義兄の場合はそれが許されない状況、環境であるのが気の毒なのだが・・・。

親族は、この事件により特別なサポート体制にシフトした。
姉宅の状況は目まぐるしく変わった。
義兄は11月に脳腫瘍の摘出手術をし、12月に姪は気管切開手術をした。
姉は姪の付き添いで共に入院、コロナ禍のおり、病室から出ることもない軟禁生活。飼い犬は我が家に合宿。姉宅は誰もいない年末年始となった。

義兄は結果、この事件からちょうど4ヶ月たった日に旅立った。

私はnoteの下書きに、自殺未遂の直後にこの記事を書いていた。
常々、我が家のトンデモ家族ぶりは文章に残すべきだと姉が言っていた。
今回の事件も、「ネタにしてくれて全然構わない。今は、薬飲んでも簡単には死なないことを、世の中に知らせないといけない。」と言うので、公開することにした。

私が思うのは・・・。
人は生まれるタイミングも選べないのだから、死ぬことも選ぶことはできないのじゃ無いかと・・・。
自分自身でも選べないけど、他人もそれを選ぶ事はできない。
殺人もそうだけど、死刑もダメだと思う。
そこには、司法で死を宣告する仕事、死刑を執行する仕事が発生する。
誰も、そんな仕事を強いてはいけない・・・。
そんな風にと思っているのです。

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