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愛の受け取り方の補講はやってないんですか。

愛の受け取り方なんて知らない。人生でそれが必修だと言うなら、補講はないんですか。

ないんだろうな。

私は、愛を信じていない。人間も、きっと信じていない。でもそんなの、恋愛しなければ特に大きな失敗もないだろうし、プライベートの人間関係が充実しなくても、創作物に触れることで満足できるのだから大丈夫。そう思って生きてきた。

そう思わないと、やってられなかったからだ。恋愛を放り投げ、ときには友情も放り投げて生きてきた。

そんな私の、大失敗の一年間がある。それは大学卒業前の一年間、卒業研究で研究室に属していた頃だ。あの頃、私は、これまでならいつまでも誠実であろうとした学問に対してさえも、誠実ではなくなっていた。

心身の調子を崩していた。一言で言えばそうなる。

仕方ないことだから忘れてしまえばいい。そう囁く私もいる。忘れてしまったっていい気もする。もうあそこに戻ることはない。会うこともない。

このnoteを読んで、私は自分が他人からの愛情を受け取れない人間であることを改めて自覚した。

元々、大学卒業前の一年間について軽く話した友人に、「あなたは愛を受け取れない人間である可能性が高い」と言われていた。でも、私はその友人にすべてを話したわけじゃない。

いや、私自身が何につまずいたのかも、自分でわかっていなかった。だから、相当要領を得ない話であったことだろう。

抑うつ状態で家から出られなくなっていった、くらいの話し方だったと思う。

大学卒業前の一年間、私は先輩や先生からたくさんの言葉を受け取った。

「ここはどうなっているんですか?」

「あれはやりましたか?」

発表前に質問を予想して対策をしようにも、質問の予想ができなかった。発表の準備も、何をどこまでやればいいのかわからなかった。

わからないことが、わからなかった。だから、ゼミの時間は苦痛だった。特に、自分の発表のときは。

先輩や先生からの厳しい質問にあたふたして、追及が終わるのを待つ。追及の内容なんて到底頭に入ってこない。

後で気づいたけれど、あの頃の私は英文を読むと行がずれていっていた。うつ状態の症状の一つである。

言葉を受けとる、いや、受け取っては捨てているばかりだった。そして発することはなかった。

表面上は、ひどく明るい学生だったけれど、研究などに関して自分から発信することは少なかった。まだわからないことがあるからと口をつぐんでいたのだ。

わからないことがあるから、質問すべきだったのに。

先生や先輩に質問すればするほど、「こんなこともわからないなんて」と言われそうで、怖いから、質問しなかった。

私の「大丈夫です」はどんどん嘘で塗り固められていった。大丈夫じゃない。何もわからない。

私は見事に誰かに助けを求めるチャンスを潰していた。何せ小学校で隣の子に忘れ物を借りられないくらい、プライドの高い女だ。大学生になったからって、「わからないんです、助けて」なんて言えるはずもない。

私が研究室で失敗した原因はコミュニケーションの欠如と学力の低さ、先輩や先生との相性の問題だと思う。

私は常に受け身だった。与えられた課題をギリギリでこなす、もしくはこなせていないのを何とか許してもらう。そして終わったらすべて忘れる。

自分の状況を発信することも、進捗報告でもなければしなかった。極力人と関わらずにいたいと思っていた人間だ。

そこに、私の所属していた研究室のスタイルが加わって、コミュニケーションを取らない学生になった。

研究室選びを間違えた。コミュニケーションを取らなすぎた。学力が足りなかった。うつ状態になった。

こうしてどんどん私は身動きが取れなくなっていった。

今までは、原因はそれだけだと思っていた。

しかし、あさぎはなさんのnoteを読み進めていくうちに、それだけじゃないと知った。

私は、あさぎはなさんの先輩の優しさに気づくことはできないだろう。言葉を額面通り受け取ってしまうから。

勿論、あさぎはなさんのnoteに出てくる先輩に問題がないとは言わない。受け取り方によってはアカハラ(アカデミック・ハラスメント、研究室など学問や研究の場で行われるハラスメントを指す)になると思う。

でも、私は、あの頃、適切な指摘にさえも、そこに敵意が含まれていると勘違いしていた。だから、怖かったのだ。

それは何故か。極端なことを言うと、私が先輩も先生も信じていなかったからだ。

研究室での指摘に優しさや愛が含まれているなんて、思いもしなかった。信頼関係を築けていなかったのだ。

信頼関係を築けていなかった理由は今はまだわからない。研究室の雰囲気は悪くなかった。

至らないところの指摘をするのに、わかりやすく丁寧に、すっと入ってくる伝え方をしてくれる人に出会って、一緒に仕事をして、思う。私にはそういう人が合っていたんだと。

人を怖がらせなくても、指導はできるし、怖くない人のもとで、学びたい。

とはいえ、指摘すらも怖がってしまうのは、人間不信を極めすぎているので改善すべきではある。

執筆のための資料代にさせていただきます。