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自分のために生きる、とは。

今日、SNSで見かけた「自分のために生きてきたことがない」という言葉が心に残り続けています。

いろいろな方がリプライしていて、多くの方から投稿者の方の信頼が厚いことが伺われました。
私自身がそこにリプライしてみようかと思ったのですが、深く知らないその方へのメッセージとしては唐突すぎると思い、ここに記します。


思春期、青年期と、私たちは大人というカテゴリに分類されはじめる過程で、「自分には何ができるか?」「自分には何が向いているか?」を決めなければなりません。

本来ならば「考えなければならない」と書きたいところですが、進学・進級の時点でそれは許されません。
何回かの確認の場を通りつつも、進路は決めなければならないからです。

「自分には何ができるか分からないけど、とりあえずこれ。」
「自分には何が向いているか分からないけど、とりあえずこっち。」

これは否定ではありません。
とりあえず決めて、やってみないと分からないのです。
中にはトライしてみた結果、自分の資質や特性を活かすことのできる人たちが出てきます。

しかしながら、すぐに自分の資質や特性を活かせることができていると実感することができる人は少ないのではないかと思います。

そして、人生における模索が始まります。
自分を活かす場を見つける、旅のようなものかもしれません。


自分のために生きる、とは。

これはあくまでも、私個人の考えです。

自分のために生きてきたことがない。
誰かの役に立つのが好きなのは、生きる目的としていいのか。

この思いに返答するならば、こんな言葉が浮かびます。

自分のために生きている人っているのかな?


私は子供を出産しました。私の中から命が生まれたのです。
生まれた子供は何のために生きていると思いますか?

生命を維持するためです。

数ヶ月のうちに、表情豊かになります。
握りしめていた手で物をつかみ、誰かにそれを渡すとニッコリと笑うようになります。

言葉を話さないうちから、自分以外の誰かと自然とコミュニケーションを取り始めるのです。

この頃の子供は、自分が他者承認されることに安心感を得て心を成長させます。


他者承認を繰り返すと共に、自我が芽生えてきます。
ある意味、この頃の幼い子供は「自分のために」生きているのかもしれません。

けれど徐々に、他者承認欲求から、他者を認めていくことを学んでいくのです。おもちゃは譲り合い、お菓子は分け合い、泣いている子がいたら頭を撫でてあげる。

誰かのためにできることを考えて、それを実践し、相手が良い状態になる。この経験をすることで、社会性を持った人間となっていきます。



自分のために生きてきたことがない。
誰かの役に立つのが好きなのは、生きる目的としていいのか。

なんて素晴らしい気づきだろう。
純粋に自分の心に向き合える、なんて素敵な人なんだろう。
他者を認めることができ、誰かの役に立つことが好き。

そんな生き方ができるなんて、最高じゃないかな。


自分のために生きている人っているのかな?

大切な誰かを悲しませないようにしてきたり、誰かの期待に応えることを優先して生きてきたとしたら、「自分のために生きてきたことがない」と思うのかもしれません。

けれど、「自分のために」だけで生きている人は、実はあまりいないと思いませんか?
生まれた時から大富豪で、働かなくても一生暮らすことができる。そんな環境にいたとしても、「自分のために」だけで生きている人っていないような気がするんです。


つまり、
自分のために生きている人は実は存在しない。

もし、「自分のために」を実感したいのなら、小さな幸せを集めることを続けて欲しいと思います。

「今、ちょっと幸せかもしれない」と思う瞬間を丁寧に感じ取れるチカラなのではないでしょうか?

そして、大切な人の笑顔や、もしかしたら怒った顔ですらも、振り返れば幸せな瞬間であったりします。

そんな小さな幸せを集められる人を、私は魅力的な人だと思っています。

だって、
死ぬときに思い返すのは、
そんな小さな幸せだと信じているからです。


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