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憶測記事を見て思うこと。

悲しい出来事が起きると、それが報道されます。
わたしが幼い頃は、テレビと新聞でした。ラジオはわたしの生活にはあまり身近なものではなかったので。

インターネットという言葉を聞くようになって、ネットニュースというものが出てきました。
今のわたしはテレビは全く観ないし、新聞は購読しておらず、日々の出来事はネットニュースで把握しています。

ただ、ネットニュースは、テレビで報道されたことがそのまま動画や活字になるので、別のメディアでありながら関係性は深いといえるでしょう。


新型コロナウィルスに翻弄され始めてから、ニュースを観ないようにしているという友人もいます。完全にはシャットダウンしていないと思いますが、毛嫌いするかのようにニュースからもSNSからも離れているようです。


憶測記事を見て思うこと。

衝撃的な出来事があり、ニュースとなる。
それは自然なことだし、それが報道の役割なのでしょう。起きた事実に対して、知りたいという発想も、そのニーズに応える人たちがいるのは当然です。

昔からゴシップ記事のようなものがあるのは、ある意味当然なのかもしれません。
けれど、何かが変わったと思うのです。ゴシップ誌と呼ばれるものに書いてある記事は、それを購入して読んだ人たちが目にするだけだったと。
いつしかネットニュース、ネット記事になることで、拡散というトゲを持ってしまったのだろうと。

憶測記事だと判るタイトルでも、つい知りたいと思って読んでしまう。
けれど最終的には、「いい加減なことを書いて!」と呆れてしまう。そんなことをここ数日繰り返している自分に気づきます。

それぐらい、気になってしまうということだけど、何だか踊らされている自分が悲しくなったりもします。

わたし自身は、ネットニュースも読むし、SNSを使ってはいるけれど、心を鎮めるための探求は、時に自分を傷つけることを思い知りました。


踊らされず、逃げず、正しい判断でそれを扱う。
情報の取捨選択は、今を生きるためのスキルなのかもしれません。


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