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自らの人生を生きたいと思える社会

この一週間、衝撃的な死に世の中が揺れました。いえ、まだ揺れは続いていると言えるでしょう。
わたし自身も揺れました。真実というのはその人にしかわからないけれど、誰もが原因を知りたいと願ったはずです。



そして、もう一つ、「ALS患者 嘱託殺人事件」という文字が飛び込んできました。

「死」というのは、正直、わたしには荷が重すぎると思っています。
考え過ぎれば辛くなり鬱々としてしまうのを知っているし、あえて避けているようなところがあると自覚しています。
次の瞬間、絶対に生きているという保証など、どこを探してもないのだから、直視しないようにしているところがあります。

けれど実際には、死に近いところに生きている人がいることを知っています。理解のしようもない苦痛や悲しみを抱えている人がいる。それを知りながらも、何となく目をそらしているような気持ちになるのを感じていました。


上手な言葉が見つからない中で、このニュースを観ました。

どんなに障害が重くても、重篤な病でも、自らの人生を生きたいと思える社会をつくることが、ALSの国会議員としての私の使命と革新しています。

報道や舩後さんのコメントを読みながらこのnoteを書いていたら、涙が出てきました。わたしの頭の中だけでは、とても言語化できなかった言葉に触れたからだと思います。


自らの人生を生きたいと思える社会

わたしは政治家ではないし、影響力を持った人間ではありません。
けれど、小さい世界ながらも、「自らの人生を生きたいと思える社会」というのはわたしにも作れるのではないかと思いました。

それは子育てかもしれないし、教育かもしれません。
誰かとのコミュニケーションかもしれないし、お金に関わる何かなのかもしれません。

直視するとか、軽んじるとか、目をそらすとか、そういうことではないのだと気づいたのです。

それでも実際には、こんな思いは軽率なのかもしれません。上っ面の綺麗事なのかもしれません。
けれど、小さな世界からでも、小さな範囲からでも、生きたいと思える環境について考え行動することは無駄ではないはずです。

明日には、子供たちとこの思いを共有するでしょう。
一人で考えるべきではなく、誰かと考える。誰かのために誰かと一緒に考える。
そうやってわたしは、小さな世界、小さな範囲、小さな社会で「生きる」を実感したいと思うのです。



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