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認められない人生を、認める勇気のこと。

この一年くらいで、マインドやら人の資質やらについて考えを深めてきました。深めすぎて気にしすぎる自分が辛くなりそうだったので、ある時からシフトチェンジしたりもしました。

自分や誰かの資質について調べたり考察していると、驚くくらい時間があっという間に過ぎていて、生活に支障が出そうだったからです。
ちょっと可笑しいですよね。

私のまわりには「ちゃんとした自分」であろうとして、自らの首を締めている人が多かったようです。
私は「ちゃんとした自分」を持っていないと自負しているので、そんな人がこんなにいるのかと知った時には軽い衝撃を受けました。

多くの人が、小さい頃から、親の言うことをちゃんと聞いていたとか、長女だからちゃんとしなきゃいけないとか。
もちろん大切に育ててもらったことも認識しつつも、「ちゃんと」を守り持っていたが故に雁字搦めになってしまったという感じです。

だから、「ちゃんとを卒業しよう」みたいな流れになって、楽になりました!となるわけです。


認められない人生を、認める勇気のこと。

謙遜でも何でもなく、私はちゃんとした人ではありません。
(挨拶や仕事の納期などは、相手がいるのでちゃんと守りますよ。)

親の言うことに反抗し続けて生きてきて、正直今でもそれが続いているくらいです。自分が納得しないことは、親が何と言おうと従うことを嫌いました。

親に反抗することが良いと言っているわけではありません。
当然ながらその代償として、私は自己肯定感の高さを自覚していますが、親との関係は悪いです。


ちゃんとした方がいいのか?
ちゃんとしない方がいいのか?

結局どちらが良いのかといえば、それは本人の意思なのだと思います。
時と場合によって、「ちゃんとする」を選ぶこともあるでしょうから。

一つ言えることが、「ちゃんとした自分」を選択した人は、認められるか認められないかに拘る傾向にあります。

「こんなに頑張ってるのに、認めてもらえない」
「頑張ってるねと、言ってもらえない」

こうやって、認められない人生を受け入れることができないのです。
お分かりになると思いますが、「認められない」から生まれるのは、不満の言葉です。
人生に不満を持ち、自分に不満を持ち、いつまでも心が満たされない状態になるのです。

満たされない心は、当然、満たされたいという欲求に変わります。
認めてくれそうな場所に、次から次へと渡り歩くのです。

ここで、もし満たされることが起きたなら、とてもラッキーでしょう。
トライすることで巡り会えたとしたら、それは運命でもあり、トライした勇気の賜物であるとも言えるからです。

けれど、どこを渡り歩いても、満たされない場合もあります。
そんな時はいったん、認められない人生を、認める勇気を持つことも大切です。それは、自分をダメな人間として諦めるということでは決してありません。今の状況では、認めてもらえないんだという事を、全面的に受け入れることです。

「しょうがないな、よしよし」

まるで泣き疲れた子供の背中をさすりながら、頭をポンポンしてあげながら、気持ちを落ち着かせるようなイメージです。

ありのままの自分を、認める勇気を持つ。
「ちゃんとした自分」から降りてみる。

ひとつ階段を降りたところで、また登ればいいだけです。
いったん階段で座り込んだところで、また登ればいいだけです。

いいじゃないですか。
たくさん「ちゃんと」生きてきたんだから。

大丈夫。大丈夫。

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