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わたしの目線。

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大切だと思うことを、「わたし目線」で記したもの。
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#大切な人

「見てて」が起こす変化と、応援の意味。

幼い子は承認欲求の塊です。 承認されないと生きていけないからです。 お腹が空いたら泣き、身体の不快感を覚えて泣き、その度に抱き上げられて世話をしてもらう。これ以上の承認はないとさえ思えるくらいです。 言葉を知り話すことができるようになると、自分を承認してくれる人に対して「見てて」と口にします。 「ママ、見てて」 「パパ見て」 自分のできることや、自分が見たもの知ったものを承認してもらう。頷いて反応してもらうことで安心感を得る。 この積み重ねにより自我もさらに強くなって

思いが空回りする時は、本質から逃げているのかもしれない。

私はHSPだし、全般性不安障害を経験して未だその名残を抱えながら生きています。「敏感さ」というのは他人と比較することは難しいけれど、光や音や匂いといった物理的要素のある面でのインパクトを受けやすいのは判ります。 これらは、自分一人でインパクトを受ければいいだけだし、一過性であることがほとんどなのでやり過ごすしかないと諦めています。 けれど、「心の敏感さ」というのはなかなか切り替えることができなかったりしました。 ・・・そう。過去形です。 人の表情や声の音程や強弱に影響

やさしい言葉は、話さなくても聞こえる。

私は言葉を大切にしています。言葉は自分との対話に必要だし、もちろん誰かとのコミュニケーションに欠かせないものだと考えているからです。 思いを言葉にすることで、物事が明確になります。 グラスがテーブルの上にある事実は、言葉を重ねていくことで、変化していきます。 娘がお茶を飲むのに使ったコップが、テーブルの上にある。 グラスの周りには水滴が付いていて、触れるとまだ冷えている。 出かける前に一口飲んだけれど、時間がなくてそのままになったグラスは、持ち主を探して少し焦っているよ

雨が降ってきそうなのに、傘を持たないで出かけるあなたのこと。

5月も半ば。寒さを感じなくなって、冷え性の私はとても嬉しい。なおかつ、花粉症の時期も過ぎたから快適なのだ。 日差しが強ければ汗ばむこともあるけれど、真夏ほどのウダウダ感はもちろんなく、この季節は本当にありがたいと思う。 今年はコロナのこともあって、手放しで春を楽しめるわけではないのだが、年間を通しての私の動きにはさほど影響していないと思っている。 というのも、全般性不安障害を経験してから、遠出することがとても怖いと感じるようになってしまったからだ。 心の中では、たまに

一歩引いたところにいる、自分を感じること。

人の気持ちなんていうのは完全に誰かに伝わるものではないと思っている。 「当然」とまで言い切ってしまう理由は2つある。 1つ目は、価値観や感性が違うから。同じ言葉を聴いた人が3人いたとして、受け取り方はまさに三者三様となるわけだ。「完全に」というのは難しい。 2つ目は、伝える方の問題だ。 伝える側が、どれだけ「伝えるための情報」を手にしているかだ。手にしている情報が少なかったり小さかったりすれば、伝えることに対しての熱量が低くなる。よって、完全には伝わらないのだ。 一歩

誰かを「大切にする」ことの意味。

私たちは、常に自分の心と会話しながら生きている。 独り言のような呟きの時もあるだろうし、誰かと話し合いをするように問いかけている時もあるだろう。 自分の心は自分に楯突くこともないし、見限ったりはしない。 ただ、一人称であるが故に、会話の広がりが不足する。 ワタシは、誰かと話をする時、もしくは話をした後は、ひどく疲れる。 誰かの話を聞くのが好きなのに、ひどく疲れる。 聞くことや話すことに集中して、脳が疲れたのかもしれないし、ただ単にカフェで長時間座っていたことが疲れたのか