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職業の貴賤を決めるのは誰か。あなたの価値を決めるのは誰か。

わたしは、自由でいたかった。「1つのことだけしかしない」なんて生き方はできなくて、でも、世間のことを知らなくて。はじめて働いた日から去年まで、「非正規雇用労働者」として働いてきた。そのほうが縛られずにいられると思ったから。

働く人としての誇りと、お金が無くては暮らしていけない現実と、自分はこのままでいいのかという不安。

わたしは自分が賤しい仕事をしているなんて、1回も思ったことはなかった。だけど、一生こういう働き方をするとも思えなかった。

わたしは何のために、誰のために、仕事を選ぶのだろう。自分の能力を、労力を、何のために費やし、何と交換するのだろう。わたしの価値は誰が決め、いつ納得行く評価をもらえるのだろう。

なんだか最近、その答えをみつけた気がしている。

職業の貴賤を決めるのは誰?


「職業に貴賤はない」とは言ったものだが、 一般的に価値が低いと思われやすい職業や労働者は存在する。
誰がどうして、そう思われる職業や人が生まれていくのか。

他者によってそう評価されることもあるだろうが、実は、当事者自身が自分をそう評価してしまっている場合も多くある。

私が働いていたスーパーの労働者は、「おばちゃん」と呼ばれる世代の人たちがほとんどだった。

一言におばちゃんといっても、その年齢の幅は30年ぐらいあるんだけど。40代~70代ぐらいの人たちが働いていた。
その下に30代の人が1人、私の1コ上の人が1人、そして私がいた。 私と1コ上の人を除いては、皆家庭がある主婦だった。

店長と、生鮮・精肉・青果などの部門を束ねる人たちは、男性で社員だったが、私も含む他の人たちは95%ぐらい女性で、全員パートだった。

職業がスーパー勤務でも、雇用形態がパートでも、この人めちゃくちゃ頭良いな!って人は何人もいた。が、しかし、本当にもったいないことに、ここで働いている人たちには、「私なんて…」って諦めてしまっている人がたくさんいた。絶対凄いことできる人なのに…。

おばちゃんたち自身が、自分を、自分の職業を、価値や可能性が無いと思い込んでしまっていた。

自分自身の存在意義


では、外部の評価はどうか。もちろん、人を下に見て批判したがる人もいるだろう。でも、「プロ意識」「専門性」を評価してくれる人もたくさん見てきた。

レジ打ち、品出し、と一言で言っても、極めれば人を感嘆させる職人芸に昇華できる。それに対して感動の気持ちを伝えてくれる人もいる。 誇りを持って働けば、
相手は敬意を示してくれる。

でも、職人芸レベルで仕事が出来る人たちですら、何故か自己肯定感が非常に低かった。
田舎ぐらしで、結婚して、子供がいて、仕事か旦那さんと子供の世話で時間が消えていく…。そういう毎日に、「パートのおばちゃん」、「奥さん」、「お母さん」であること以外に、自分の存在意義みたいなものを感じられなくなってしまうんだろうか…?

「家事は女性だけがするもの」じゃないし、「勉強は学生だけがするもの」じゃないし、でもその価値観に触れてこなかったせいで、ここを変えるって選択肢を持ってない人たちをずっと見てきて。そこで感じたもどかしさや、自分の価値に気づいて欲しいという気持ちは、自分が今している選択にけっこう大きな影響を与えていたりする。

どんな職業か、より、どう働いているか


時給は800円いくかいかないかだったけど、800円以上の働きをしてる人はたくさんいた。その人たちの、職場に尽くす姿勢、仕事に誠実な姿勢は本当に尊かった。
この人ならきっとどこに行っても結果を出せるんだろう、って人もたくさん見てきた。

逆に言えば、出来るだけ手を抜こう(悪い方向に)とする人もいた。同じお給料をもらう人たちの中に、人の3倍働こうとする人と、人より少ない仕事しかしないようにする人が存在した。

そんな人たちの姿を見たことで、仕事の尊さは職種とか、収入とか、肩書きとかじゃなく、どんな姿勢でその仕事に取り組んでいるかで決まる、と気づかせてもらった。

そして、尊い仕事をしたいと思わせてくれた。自分が「他の誰でもいい誰か」ではなく自分としてそこに居る意味を自ら作ろうと思わせてくれた。

この経験は私に、意味のあることをしている、という誇りを持たせてくれたし、「スーパーで働いている人」というアイデンティティを気に入らせてくれた。貴賤というものがもしあるのだとしたら、職業自体にあるのではなく、どう取り組むかにあると気づかせてくれたのだ。

どの大学に行くか、ではなく何を学ぶかが大事、って話と同じだ。

本当に意味のあることは何か、本当に頭が良いってどういうことか。それを探そうとする視点を与えてもらった、重要な経験だった。

プレイヤーとしての力、お金を稼ぐ力

こうして、スーパーで働いたわたしは、たくさんの学びを得たわけだが…

ひとつだけ、あの時の自分に知っていてほしいことがある。

それは、「プレイヤーとしての能力を鍛えることと、能力をお金に変える力を鍛えることはまったくの別物だ」ということだ。

あの頃のわたしは、「お金と交換できるもの」といったら、「時間を売る」という方法しかしらなかった。1時間を1000円弱のお金と交換するチケットのようにおもっていたのだ。

そうじゃない働き方をしたら、なんだか自分の自由が奪われてしまうような、そんな気すらしていた。

だけど、換金するラクさとそれと引き換えに得たのは気楽な生活なんかじゃなかった。自由な生活でもなかった。

むしろがんじがらめに縛られて、どこにも行けない苦しさ、貧しさ、不安感を常に感じていた。

学んだこともたくさんあったけど、はたらいた5年間の後半は、惰性で同じ職種に就き続けていたような部分が少なからずあった。そしてその理由は、現状に満足しているからなんかじゃなくて、自分がなにか新しいことをできるなんて、信じられなくなっていたからだ。

自分を信じられなくなるわけ

時間を売る以外のやりかたで、お金をもらう方法を知らなかったわたしは、誰かに雇ってもらわなければ、生活に必要なお金すら手にすることが出来なかった。

そんな状況で、今の働き方と全然違う方法で収入を得る自分の姿なんて、とてもじゃないけど想像できなかった。「結局、自分は時間を人に提供することでしか、お金を得られない。」

今思えば、そういう感覚を常に抱いていたようにおもう。そしてこの感覚はきっと、自分の能力を低く見積もるのに十分すぎる理由になる。だって、ある日突然道に放り出されてしまったら、わたしは最低限のお金も稼げなくって、路頭に迷うしかないのだから。そういう漠然とした不安は、じわじわと、自分に期待する気持ちを崩していったようにおもう。

わたしが非正規雇用労働者として見てきた人たちは、きっとそうやって、だんだんと自分の事を信じられなくなっていってしまったんだろう。だからもう、新たに行動を起こして未来を変えようなんて気にはなれないんだ。

結局の所、待っていたってなにも変わらない。

職業に貴賤はないけど、もし周囲の評価や収入が、自分に見合っていないと感じるのであれば、そのズレた歯車を調整する必要がある。そしてその歯車は、「いつかだれかが気づいて、分かって、調整してくれる」そんな日を待っているのでは永遠に噛み合わないままだ。

自分の能力を換金する方法を、自分自身がしっかりと考えるほかないのだ。

誰も本当の自分を理解してくれないとか、能力が正当に評価されていないとか、嘆き苦しむだけでは何も変わらない。どうすごせば苦しまずに済むか、納得して過ごせるか、その答えの糸口を、自分自身で探し出すしかないのだ。

人生が長いか短いかなんて、感覚は人それぞれだけど、私にとっては人生はとてつもなく長い。それだけ自分の仕事に誇りを持っていたって、1時間の価値が永遠に上がらない、そんななかで働くのはとてつもなく苦しかった。だけど、苦しかったワーキングプア生活だって、たったの5年だった。

これから60歳まで生きるとしても、あと35年。そのすべてをまた同じ様な苦しみを味わいながら生きるのではあまりにも長いし、そもそも生きている姿が想像できない。

そんなに長い人生だから、だれかに自分の価値づけを委ねて、振り回されて生きるなんて出来ない。

やりたいこと、意義があること、お金と交換できること。あなたの価値をつくるのは、得体の知れない外的要因じゃなく、あなただ。

*

わたしはいつか、広大なひまわり畑のような未来で、ケラケラ笑いながらこう言いたい。「人生短いよ!」って。

「何かに夢中になってたら、こんなところまで来ていたよ!」って。

わたしはわたしの価値を、人生を、自分で創ったよって。

できるかな。できるといいな。未来のわたしが、笑っていますように。

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