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私の青春の傍らには、いつも嵐がいた

崖から転げ落ちるとき、何かに掴まらずにはいられない。それが心の中で起こるとき、人はきっと強烈に何かに依存するのだろう。

私は燃え尽きた。らしくない強さを羽織り、趣味じゃないことが楽しくて、嫌いなことが嫌いなまま終わり。全てが本当の私に還ったとき、張り詰めた糸は弾けた。離れた両端を見つることが、困難な程に。

足場は既に、それなりに大きな音をたてて崩れ始めていた。それでも気づかなかったのは、きっと大音量で音楽を鳴らしていたからだろう。

誰でもない誰かに、今すぐにでもここから連れ出して欲しくて、でも、本当は誰にも触れられたく無かった。それでもそんな誰かがいつか連れ出してくれる日を夢見ながら、僅かに残った足場から深い海の底に投げ出される事の無いよう、ただ足元だけを見つめ、うずくまっていた。

灰色の毎日でも、メロディが聞こえるその瞬間だけは、色づいた世界にいられる。

暗い部屋で涙を流す日々。そんな毎日から身を投げ出さずにいられたのは、きっと嵐の曲があったから。

強いのに、もろい。壊れそうで、壊れない。

そんな彼らは、時には同じ場所でうずくまり、時には新たな場所に導いてくれた。

時は過ぎ、私の心は新たな糸を紡ぎ自分の足で歩みはじめた。走って、転んで、砂を払って、また走る。そんな私と共に走ってくれた。

本当にファンだった。私の毎日は、嵐を中心にまわってた。

自分の力で生きられる。そう確信した頃から、毎日の中心には新しいものが入ってきた。だんだんと目と耳は嵐の曲や映像を、見聞きする以外にのことでいっぱいになった。そうして20歳の夏、私は嵐のファンを辞めた。

ここ数日、嵐のなにを好きになって、なぜファンを辞めたか考えてわかった。

嵐の儚さが好きだったんだな、と。

流行るまでに苦労した彼らと、少女の私。環境は違えど、そこには共感できる不安があった。

その不安定さが無くなることこそが大人になる、ということかもしれないけれど、そうして失ってしまったなにかがとっても寂しいような。

嵐にはいつも、「苦悩」の体現者であり、そして同じ境遇に苦しむ人を励ます存在でいてほしかった。明るいメロディに、苦しみをのせて歌う、そんな彼らが好きだったんだ。

変わっていくことは良いことだ。だけど、彼らは彼らを彼らたらしめたそれを、どこかに置いてきてしまったよなぁ、と。

今、新しい曲をきいてもなにも響かない。
それはただ、私が健やかになっただけかもしれない。

消えてしまった切なさは、間近では見れないからこそ美しい。

今の彼らにもう心惹かれなくても、好きだったことは永遠に消えない。

この世に留まることを今にも捨ててしまいそうな私が生きた青春の傍らには、間違いなくいつも嵐がいた。

おいしいごはんたべる…ぅ……。