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探して見つからないものを、あると信じて疑わないのは

生きる意味が見つからない。そう嘆く彼らは、一体いつから「生きる意味は誰しもに生まれつき与えられている」と錯覚したのだろう。

誰かが命を断つ度 物知顔で語るワイドショーのコメンテーター達は、「誰もが当たり前に生きる価値を感じている」と、いつから勘違いしたのろう。「もったいない」意味が分からない。「自殺なんて絶対ダメ!」とてもじゃないけどそんな事言えないよ。

人々は一体いつから、生きているこの状態自体に意味が与えられていると信じて疑わなくなったのだろう。

はるか昔。世界の全てがただそこに在る、そんな時代があった。思考し、何にでも意味を持たせたがる人間といういきものが、この地球に蔓延るずっと前から。存在することそのものには、もともと意味なんてない。

私たちは親によって生まれた。母の胎内に宿ったとき、親が生まない決断をしなかったからここに居る。胸を打つドラマは人の数だけあれど、誰一人として自ら望んでこの世に生まれ出た者はいない。
そうして始まる人生にあるのは親にとっての「子が生まれた意味」であって、産声を上げる赤子自身にとっての生きる意味ではない。ただ、生きている。それだけなのだ。

何故、今日この日、私は生きているのか。その答えはいたって簡潔で、「今まで死ななかったから」。血潮が、呼吸が、心臓の鼓動が、止まらなかった。この世から消えなかったからこの世に存在している。それだけなのだ。

なぜ生命を全うするのか。「誰かを悲しませたくない」「歴史に名を残す」「人間という種の保存」人はいつか終わる。誰かの人生が終われば、人類の歴史が終われば、全ては消えてなくなる。それならば、消えないための生に、意味などあるまい。

ただこの世に存在しているだけでは、少しずつ消えていく寿命が尽きるのをじっと待つようなもの。今日、私がここに存在している。それ自体に意味なんて無い。

生きる意味が分からない。そう思ったとき、生きているこの状態自体に、神か、創造主か、その他の人知を超えた何かが意味を与えてくれると思ってしまっていないだろうか。無いものを探して「無い、無い」と嘆く、それほどに虚しい人生はない。はじめから在りもしない、生を受けた意味の幻想に憑りつかれていやしないか。

生きる意味が分からない。そう思ったとき、何かの結果そのものが、自分の価値を代弁しているような気分になってしまってはいないだろうか。自分だけでは操りようのないものに振り回される、それほど不安定な人生はない。たった一部のことが人生の全てであるかのような幻想に憑りつかれていやしないか。

今日は涙が止まらなくて、部屋から一歩も出られなくても、ささやかな胸の高まり、小さな感情の動きに背中を押される瞬間、それを逃さず捉える眼を、どうか閉ざさないで。

草のにおい、鳥のさえずり、昨日より少し暖かい風。
出来立てのごはん、肩まで浸かるお風呂、ふかふかの布団。
見たいもの、聞きたいもの、いつかカタチにしたいもの。

生きる意味なんて無いよ。ただ、このために生きたい、と思うことがあるだけ。

おいしいごはんたべる…ぅ……。